明史卷二百二十四 列傳第一百十二 陳有年

父の陳克宅

  • 陳有年は字を登之といい、餘姚の人。父の克宅は字を即卿といい、正徳九年(1514年)の進士。
  • 嘉靖年間に御史として大礼の議で哭諍した。ある大官が去ろうとすると、克宅はその首を押さえて「人望を担う者が先に去ってどうする」と言い、その人は恥じて思いとどまった。ほどなく投獄され廷杖を受けたが釈放された。
  • 前後して貴州・河南を巡按し、多くを弾劾した。吏部尚書の廖紀の姻戚が弾劾されて罷免されたため紀に憎まれ、松潘副使に出された。
  • 累進して右副都御史・貴州巡撫となった。都匀の苗族の王である阿向が凱口囤に拠って反乱を起こすと、克宅は總兵官の楊仁とともに攻めて阿向を斬り、功により官秩を進められた。まもなく蘇松の巡撫に移ったが、出立後に阿向の一党が再び反したため罷官のうえ取り調べを待つ身となった。巡撫の汪珊が賊を討ち平らげて功を克宅に譲ったときには、克宅は既に没しており、そこで恤典が賜られた。

吏部での硬骨

  • 有年は嘉靖四十一年(1562年)の進士で、刑部主事に任じられ、吏部に改まり、驗封郎中を歴任した。
  • 萬厯元年(1573年)、成國公の朱希忠が没すると、その弟で錦衣都督の希孝が宦官の馮保に賄賂を贈り、張懋の先例に倣って王の追贈を請うた。大學士張居正がこれを主導した。有年は不可として上奏の草を作り、法典では功臣は没して公なら王を贈り、侯なら公を贈り、子孫で爵を継ぐ者は生死とも本来の爵にとどまる、懋に王を贈ったときも廷議は不可としたし、希忠の父の輔もそう言ったのに後に贈られたのは制度に反する、まして希忠には勲功がないのに濫りに寵を加えてよいのか、と述べた。
  • 左侍郎の劉光濟が部の事務を代行しており、居正の指図を受けてその草稿を削り改めた。有年は力争して結局もとの上奏のまま提出した。居正は不快で、有年はその日のうちに病と称して去った。
  • 萬厯十二年(1584年)に稽勲郎中として起用され、考功・文選を歴任した。請託を一切断ち、人事の発令が下ると内外がみな服した。
  • 太常少卿に遷り、右僉都御史として江西を巡撫した。尚方(宮中)が求める陶器は奇巧で作りにくいものが多く、後に量を減らしてよいとの詔があったが、まもなくもとに戻った。有年は詔旨を引いて減量を請うたが容れられず、内閣の申時行らが強く争ってようやく十分の三を免除させた。
  • 南畿と浙江が大凶作となり、隣境で米の売り渡しを止めることを禁じる詔が出て、商船がみな江西に集まった。中でも徽州の人が多かったが、江西も凶作であったため、人々がこぞって有年に流出の差し止めを求めた。有年は上奏して救急の六事を陳べ、その中で先の禁令を少し緩めて江西の民が自ら救えるようにと請うた。南京御史の方萬山が詔に違反したと弾劾し、帝は怒って官を奪い、有年は帰郷した。

吏部尚書と閣臣廷推の一件

  • 推薦により操江の督として起用され、累進して吏部右侍郎、兵部に改まり、さらに吏部に戻った。尚書の孫鑨と左侍郎の羅萬化はいずれも同郷であったので、有年は強く回避を願ったが朝議は許さなかった。まもなく左侍郎から南京右都御史に抜擢された。
  • 萬厯二十一年(1593年)、吏部尚書の温純とともに京察を掌り、罷黜はいずれも妥当であった。ほどなく純の後任となり、その秋に鑨が職を辞すと、召されて吏部尚書を拝した。公署に泊まり込み、賓客には待漏所で会うだけであった。僚属の登用は当時の人材を極めた。
  • 翌年(1594年)、王錫爵が退こうとして閣臣の廷推が行われ、詔は資格・品級にとらわれるなとした。有年はたまたま休暇中で、侍郎の趙參魯・盛訥、文選郎の顧憲成が諮りに来たので、前大學士の王家屏、前禮部尚書の沈鯉、前吏部尚書の孫鑨、禮部尚書の沈一貫、左都御史の孫丕揚、吏部侍郎の鄧以讚、少詹事の馮𤦺の七人の名を挙げて上奏した。鑨と丕揚が翰林出身でないのが「資格にとらわれない」ということであり、𤦺が四品なのが「品級にとらわれない」ということであった。
  • 家屏は国本を争って退位した者で帝の意はもともと用いたくなく、また吏部尚書・左都御史まで推挙したのは先例に反するとして、厳旨で譴責し、「資格・品級にとらわれるな」というのは昔、陸光祖が自分の内閣入りを図って言い出したことだ、いま鑨と丕揚を推すのは明らかに私情である、以前吏部が二度閣臣を推したことがあるからその姓名を録して上れ、と命じた。
  • そこで沈鯉・李世達・羅萬化・陳于陛・趙用賢・朱賡・于慎行・石星・曽同亨・鄧以讚らを列挙したが、世達は前の左都御史であった。帝はまた不快で、詔旨で都御史の推挙を許さなかったのになぜまた世達に及ぶのか、家屏は旧輔臣であって擅に起用を議すべきでない、と述べた。
  • そして于陛と一貫の入閣を命じ、憲成および員外郎の黄縉・王同休、主事の章嘉禎・黄中色を雑職に左遷した。錫爵がまず上疏して有年と參魯らを救い、參魯らの上疏も続いたが、帝はいずれも容れなかった。
  • 趙志臯・張位も表向きは弁護したが、この二人は廷推によらずに入閣した者なので、輔臣は特旨で選ぶべきで、廷推は陸光祖が言路と通じて行ったもので範とすべきでないと述べた。帝は喜んで再び譴責の旨を下し、縉らの左遷は取り消して停俸一年にとどめた。給事中の盧明諏が上疏して憲成を救うと、帝は怒って明諏の官秩を貶し、憲成を庶人とした。
  • 有年は上奏して、閣臣の廷推は古くからのことで、かつて楊巍が銓政を掌り自分が文選を代行したとき閣臣六人を廷推し、いまの元輔錫爵はその年に推された者である、自分の郷里からは以前二人の閣臣が出ており、𢎞治の謝遷、嘉靖の吕本はいずれも廷推によるもので官は四品にとどまっていた、また耿裕・聞淵は吏部尚書として首位に置かれた、廷推も吏部を推すことも今に始まったことではない、資格・品級にとらわれるなというのは聖諭から出たもので、臣はこれを承らざるをえない、と述べ、あわせて辞職を固く請うた。
  • 帝はその上奏の言葉が率直なのを見て温旨で慰答した。有年はそれ以来しばしば病と称して罷免を願い、帝はなお慰留して食物・羊・酒を賜った。有年の請いはいよいよ強く、最後には自分は退くにしても遺賢を録さないわけにはいかないとして罷免された者の起用を強く請い、帝は了解と答えた。
  • 有年はそこで門を閉じて出仕せず、数か月のうちに上奏十四度に及んで、ようやく休暇を与えられ駅伝で帰郷した。帰りの荷物は書物一箱と衣類一籠だけであった。
  • 萬厯二十六年(1598年)正月に没し、年六十八。四月に南京右都御史として起用する詔が下ったが、有年は既に没していた。太子太保を贈られ、諡は恭介。
  • 従来、吏部尚書が他の官で起用された例はなく、屠滽が都察院を掌り、楊博・嚴清が兵部を掌ったときは、いずれももとの官銜のままであった。南京兵部尚書の楊成が南京都察院を掌ったときも、もとの官銜のままであった。有年が右都御史として起用されたのは、帝が用いようとしたのを内閣が密かに抑えたからである。
  • 有年の気節は天下に高かった。二代にわたり高位にありながら妻子を住まわせる家もなく、油布で雨漏りを防ぐありさまだった。江西から帰ったとき古い住まいが焼けたので、一棟の楼を借りて妻子を住まわせ、自分は寺に身を寄せた。その刻苦はこのようであった。