出自と地方官・吏部での人材登用
- 陸光祖は字を與繩といい、平湖の人。祖父の淞、父の杲はともに進士で、淞は光禄卿、杲は刑部主事。光祖は十七歳で父と同時に郷試に及第し、まもなく嘉靖二十六年(1547年)の進士となった。
- 濬縣知縣に任じられた。兵部尚書趙錦が畿輔の民を徴発して塞垣を築かせようとしたとき、光祖は不便だと述べ、錦は怒って弾劾した。光祖は巡撫に願い出て賃金を払って雇うようにさせ、民はようやく安んじた。郡王が民の財産を奪ったときは法に照らして処断した。
- 南京禮部主事に遷り、急を請うて帰郷。祠祭主事に補され、儀制郎中を歴任した。嚴訥が尚書となると光祖を大いに重んじ、その議は通らぬものがなかった。訥が吏部に移ると光祖を驗封郎中に調え、さらに考功に改めた。王崇古・張瀚・方逢時・王一鶚が世評に問われたときは、力を尽くしてその汚名を雪いだ。
- やがて文選に改まると、いっそう人材の登用に努め、在野の年長の碩学をほぼ登用し尽くした。また清廉有能な吏を破格に抜擢した。王化・江東・邵元善・張澤・李珙・郭文通・蔡琮・陳永・謝侃らで、郷試の挙人や貢士の出身の者もあれば書吏から身を起こした者もあった。これによって下級の官が競って励んだ。訥も心から任せたので、光祖は志を行うことができた。
- 左侍郎の朱衡は光祖を恨み陰口をきき、御史孫丕揚はそこで専断を理由に光祖を弾劾した。光祖は既に太常少卿に遷っていたが、罷免され閑居することとなった。
張居正の時代
- 大學士髙拱が吏部を掌り、徐階を陥れようと謀ったとき、階の賓客はみな身を隠したが、光祖ひとりが取りなした。拱が罷免され楊博が吏部を代わると、その義を高く買って特に南京太僕少卿として起用し、赴任前に本寺の卿に昇らせ、さらに大理卿に進めた。赴任の途中で父の喪に遭った。
- 萬厯五年(1577年)にもとの官で起用された。張居正が奪情(喪に服さず留任)を批判した者を杖罰したとき、光祖は書を送って諫めた。王用汲が居正を弾劾し、居正が危害を加えようとしたときは、光祖は大理卿として朝廷にあり、力を尽くして弁解し免れさせた。
- 居正は光祖と同年の進士で親しく、味方に引き入れようとしたが、光祖は迎合しなかった。工部右侍郎に遷ると、漕糧を銀納に改める議で居正の意に逆らい、御史張一鯤に論劾され、光祖はただちに帰郷した。
- 萬厯十一年(1583年)冬、推薦により南京兵部右侍郎として起用され、わずか十日で吏部に召された。居正に退けられていた老練な人材をことごとく引き上げて九卿の列に据えた。
- 李植・江東之が居正の罪を追及しようとしたとき、光祖は居正の輔翼の功は抹殺できないと述べ、言路(言官たち)と対立した。植らが丁此吕の一件で尚書楊巍を攻撃すると、光祖は巍の側に立って言官をそしり、言官たちは群がって光祖を攻撃した。そこで左侍郎から南京工部尚書に出された。
- 御史周之翰は、光祖が宗室の炳に取り入って清華の官を得たと弾劾したが、帝は問わなかった。御史楊有仁はさらに賄賂を受けて請託したと弾劾したが、巍が力をもって庇い、事は沙汰止みとなった。光祖はついに病と称して去った。
吏部尚書と辞職
- 萬厯十五年(1587年)、南京刑部尚書として起用され、その地で吏部に改められた。同僚を率いて東廠太監の張鯨を弾劾し、あわせて李沂の赦免を請うた。さらに、国本(皇太子)が定まらないのは鯨の策謀によるとして、宗社を安んじるために除くよう請うた。帝が鯨を召し戻すと、再び同僚を率いて極諫した。
- 中央に入って刑部尚書となり、帝はその名を御屏に書き記した。吏部尚書宋纁が没すると光祖が代わり、趙錦が光祖の後任となった。御史王之棟が二人とも不適任だと言うと、帝は怒って之棟を雑職に貶した。
- 当時、吏部の権限は内閣に奪われており、纁が力ずくで正そうとして挫折したのだが、光祖は怯まなかった。かつて大學士申時行と事で衝突したことがあり時行は不快であったが、光祖はついに何一つ迎合しなかった。時行が退くとき、特旨で趙志臯・張位が用いられたが、これは時行が密かに推薦した人事であった。光祖は輔臣は廷推によるべきで内旨で下すべきでないと述べ、帝は先例としないと命じた。
- 萬厯二十年(1592年)の外官の大計では、給事中の李春開・王遵訓・何偉・丁應泰、御史の劉汝康がいずれも以前外官であったときに世評が悪かったとして、ことごとく罷黜した。また許孚遠・顧憲成ら二十二人を挙用し、世論はこぞって称賛した。
- ほどなく饒伸・萬國欽の登用を推したことが帝の意に逆らい、文選郎の王教以下がすべて追われた。光祖は事は自分に起因すると罪を引き受けて辞職を願い、郎官たちの赦免を請うたが許されなかった。
- 閣臣の会推では、廷臣が先例どおり光祖の名を筆頭に置いたが、詔の返答は「そなたが以前廷推を請うたのだから、推挙で首位になるのも当然であろう」というものだった。光祖は容れられぬと悟り、日々去る意を抱いた。
- まもなく王時槐・蔡悉・王樵・沈節甫という老練の重鎮を特に推薦したところ、給事中の喬允が光祖と文選郎の鄒觀光を弾劾した。光祖はそこで強く辞職を求め、駅伝の使用を許されて帰郷した。郷里にあること五年で没し、太子太保を贈られ、諡は莊簡。
- 光祖は清廉剛直で見識があり、朝廷の典章に通じ、大政を議するたびに一言で決した。初め禮部にあって尚寳少卿に抜擢されようとしたとき、力を尽くして王時槐に譲った。孫丕揚に弾劾されて罷免されたが、後に再び吏部にあったときは丕揚を強く推挙した。趙用賢・沈思孝は丁此吕の一件を論じて光祖と対立したが、後にはこれも何度も引き立てた。御史の蔡時鼎・陳登雲はかつて光祖を弾劾したが、光祖は登雲を知己として遇した。時鼎が両淮の塩務を視察して意見を述べたため罷免され、商人が南京刑部に訴え出たとき、光祖は尚書としてその冤を雪ぎ、みだりに訴えた者を処罰した。人々はその度量に服した。