明史卷二百二十三 列傳第一百十一 王宗沐
字は新甫、臨海の人である王宗沐。嘉靖二十三年の進士で、江西提學副使として白鹿洞書院を修め、山西右布政使のときには太原の飢饉の惨状と五つの憂うべき理由を上疏して滞納賦の緩和と塩課の宗禄充当を請うた。膠萊河の開削には反対してこれを止めさせた。漕運總督・鳳陽巡撫として運軍の窮状を訴え、淮安から登州・萊州を経て天津に至る北海の道による海運の再開を献策して米十二萬石を運び秩を進められたが、颶風による転覆事故を機に海運の議は沙汰止みとなった。徐州・邳州に守將を置き義勇を募って盗賊を捕えさせた。萬厯九年に京察の拾遺で罷められ、家居十余年で没して刑部尚書を贈られ、襄裕と追諡された。子の士崧・士琦・士昌・士性が附される。
年表(5件)
- 嘉靖二十三年1544年進士に及第し、刑部主事を授けられる
- 隆慶五年1571年李貴和の膠萊河開削の議を成りがたいとして止めさせる
- 萬厯元年1573年海運の船が即墨で颶風に遭って七隻転覆し、海運の議が沙汰止みとなる
- 萬厯九年1581年京察の拾遺により罷められ、以後叙用されない
- 萬厯二十九年1601年子の士昌が東宫冊立の遅延を極諫し、貴州鎮逺典史に貶される
出自と山西の飢饉を論じた上疏
- 王宗沐は字を新甫といい、臨海の人。嘉靖二十三年(1544年)の進士。刑部主事を授けられ、同僚の李攀龍・王世貞らと詩文をもって親しんだが、宗沐はとりわけ吏治に習熟していた。
- 江西提學副使を歴任し、白鹿洞書院を修めて諸生をその中で講習させた。三たび遷って山西右布政使となった。管轄地が凶作となったので、宗沐は入覲の折に上疏した。趣旨は次のとおり。
- 山西の諸郡はみな荒れ、太原がとくに甚だしく、三年このかた百余里にわたって鶏の声も聞こえない。父子夫婦が互いを取り換えて一度の飽食に代え、これを人市と称している。宗禄八十五萬は数年にわたって支給が滞り、飢えと疫病で死んだ者は二百人近い。
- 山西は京師の右腋であり、故關から出れば真定、忻州・代州から出れば紫荆まで、いずれも三日とかからない。宣府・大同の糧は各郡に割り当てられているが、本色を運ぶのはすべて太原である。飢民がひとたび集まって踏み荒らし奪えば、毎年の宣府・大同二鎮への六十七萬の餉を誰が調えるのか。これが深く念ずべき一である。
- 四方が水旱を奏するとき十分で上げても、部議はつねに裁いて三分とし、免ずるのは存留の分だけである。いま山西のいわゆる存留は二鎮三関への輸送である。存留がかえって起運より急なのだから、山西は結局いささかの寛恕も蒙らない。これが深く念ずべき二である。
- 開墾地は万山の中にあり、岩は険しく切り立って、太原の民は澤州・潞安へも行けず、まして他所へ食を求めるなど望むべくもない。ただ真定の米だけがやや通うが、背負い車で運ぶと二斗が一斗になり、壽陽に着いたときには価は三倍になっている。これが深く念ずべき三である。
- 飢民が集まって盗となれば、招いても応じず、勢い撲殺するほかない。小なれば庫金を出し、大なれば内帑を請うことになる。帑を出して盗を殺した者に賞するより、帑を出して盗にさせない方がよい。これが深く念ずべき四である。
- 近ごろ邱富が往来して辺民を誘惑し、人を募って田を耕させ租税を取らないと妄りに触れ回っている。愚民に何が分かろう、急に迫られて選ぶ余裕もない。長い辺境八百余里で、誰がこれを要するのか。彼は誘って衆を集め、我は逃げられて空になる。これが深く念ずべき五である。
- そこで滞納の賦の徴収を緩め、河東で新たに増えた塩課を留めて宗禄に充てることを請うた。
- まもなく廣西左布政使に改められ、再び山東に補せられた。隆慶五年(1571年)、給事中の李貴和が膠萊河の開削を請うたが、宗沐はその工事は成りがたく漕運の助けにならないとして、朝廷に書を送ってこれを止めさせた。
漕運総督と海運の再開
- 右副都御史に拝され、漕運を總督し鳳陽を巡撫した。運軍の苦しみを極力陳べて速やかな優遇と恤みを請うた。また、河の決壊が定まらず運道が結局ふさがるとして、海運を復そうとし、上疏した。趣旨は次のとおり。
- 會通河が開かれて以来、海運は久しく論じられていない。臣は近ごろ山東に在官してこの議を条陳し、巡撫都御史の梁夢龍が毅然として試みて成績を上げ、滞りはなかった。憂える者はいつも風波を苦にする。
- そもそも東南の海は天下の衆水が集まる末であり、茫漠として山もなく、避ける所がない。南に近づけば水が温かく蛟龍の棲み処となる。元人の海運に驚くことが多かったのは、太倉・嘉定から起こって北へ向かったからである。
- もし淮安から東へ、登州・萊州を経て天津に泊まる道を取れば、これを北海という。島嶼が多く風を避けられる。しかもその地は高くて石が多く、蛟龍は往来しても棲み処とはしない。登州に海市があるのは、石の気が水の気とせめぎ合い、石を映して像を成すからで、石の気が水面まで達するのは石が水に近いからである。北海の浅いことがその明証である。運河の行き詰まりを補うのに、これより便のある策はない。
- そこで便宜七事を条陳して上呈した。翌年三月、米十二萬石を運び、淮から海へ入って五月に天津へ着いた。功を叙して梁夢龍とともに秩を進められ、金幣を賜わった。
- ところが南京給事中の張煥が、近ごろ八隻が漂没して米三千二百石を失ったと聞くが、宗沐はあらかじめこれを見越してひそかに人に買って補わせた、米は補えても人命は補えるのか、宗沐が見聞を取り繕うのは大臣の道義ではない、と言った。宗沐は疏で弁明して取り調べを求め、詔で先の議どおり海道に習熟して急場に備えることとされた。
- まもなく海運が即墨に至ったとき颶風が大いに起こり、七隻が転覆した。都給事中の賈三近、御史の鮑希顔、および山東巡撫の傅希摯がいずれも不便を言い、ついに沙汰止みとなった。萬厯元年(1573年)のことである。
- 宗沐は、徐州・邳州の風俗が荒々しく奸猾が多く、海辺には塩の密売人が出没し、六安・霍山では礦賊が窃かに蜂起しているとして、奏して守將を設けた。また豪俠と富家三百余人を召して義勇に充て、盗賊の捕縛にあたらせ、後に多くが功により冠帯を与えられた。
- 南京刑部右侍郎に遷り、召されて工部に改められ、まもなく刑部左侍郎に進んだ。勅を奉じて宣府・大同・山西の諸鎮の辺務を閲視した。母の喪により帰郷し、萬厯九年(1581年)、京察の拾遺により罷められ、叙用されなかった。家に居ること十余年で没した。刑部尚書を贈られ、天啟初、襄裕と追諡された。
王士崧(附伝)
- 子の士崧は進士で、刑部主事となった。
王士琦(附伝)
- 士琦は重慶知府を歴任した。播州宣慰使の楊應龍が叛くと、總督の邢玠の檄を受けて松坎に至り、これを撫定し、進んで兵備副使としてその地を治めた。まもなく山東參政として朝鮮で監軍し、功があって河南右布政使に抜擢された。楊應龍が再び叛いたことを咎められて湖廣右參政に降され、山東右布政使を歴任し、余宗濬を補佐して順義王を封じ、秩を進められ金を賜わった。右副都御史に抜擢されて大同を巡撫したが、弾劾されて転任が擬されたところ、まもなく没した。
王士昌(附伝)
- 士昌は龍谿知縣から兵科給事中に抜擢された。賊が固原・甘肅を犯し、諸將の罪を議していたところへ延綏から二たび捷報が届き、兵部が廟に告げて捷を宣べることを請うたが、士昌が奏して止めた。
- 禮科に改められた。礦税が始まると疏を上げ、近ごろ御題の黄い纛が関津に遍く掲げられ、聖旨の朱牌が粗末な家にまで濫りに及んでいる。そのため三軒の村では鶏も犬も尽き、五都の市では糸も粟も空になった。しかも税に店の名を冠するのは北齊の市肆と変わらず、官を内から遣わすのは西苑の斜封と何ほどの違いがあろうか、と述べた。返答はなかった。
- 萬厯二十九年(1601年)、帝が東宫を冊立しようとしながら故意にその時期を遅らせたので、士昌は同僚の楊天民とともに極諫し、貴州鎮逺典史に貶された。
- たびたび遷って大理右丞となり事を署理し、張問達とともに張差の獄を裁いた。まもなく右少卿に進み、右僉都御史に抜擢されて福建を巡撫した。帰って没した。
王士性(附伝)――時務の論
- 士性は字を恒叔といい、確山知縣から召されて禮科給事中を授けられた。まず天下の大計を陳べた。朝廷の要務は二つで、章奏に親しく目を通すことと財用を節することであり、官司の要務は三つで、有司・文網・督學の科条と王官の考覈であり、兵戎の要務は四つで、中州の武備、晋地の要害、北賊への機宜、遼左の戰功である、と述べた。疏はおよそ数十言、深く時弊を突いており、多くが実施を議された。
- 鰲山燈の製作が詔されたが、まもなく慈寕宫が火事となったので、士性は先の詔の停止を請い、帝は納れた。
- 楊巍が丁此呂を黜けることを議すると、士性は、楊巍は輔臣の申時行に阿り、申時行は楊巍の邪媚を受け入れており、いずれも大臣の道義を失っている、と弾劾した。取り上げられなかった。申時行は士性の座主であった。
- 久しくして疏を上げ、朝廷の人材登用はもっぱら身を保って黙するばかりで緩急に頼れない者を取るべきでないとして、沈思孝・呉中行・艾穆・鄒元標・黄道瞻・蔡時鼎・聞道立・顧憲成・孫如法・姜應麟・馬應圖・王徳新・盧洪春・彭遵古・諸壽賢・顧允成らを召し返すよう請うた。旨に忤って返答はなかった。
- 吏科給事中に遷り、出て四川參議となり、太僕少卿を歴任した。河南の巡撫が欠けたとき、廷推の首位は王國で士性は次であったが、帝は特に士性を用いた。士性は疏で辞し、資望が王國に及ばないと述べた。帝はそれを作為と疑い、しかも王國が実は言わせたのだと考えて、王國を外へ出し、士性を南京へ調べた。久しくしてそのまま鴻臚卿に遷り、没した。