出自と揚州知府
- 吳桂芳は字を子實といい、新建の人。嘉靖二十三年(1544年)の進士。刑部主事を授けられた。崔鑑という者が十三歳のとき、父の妾が母を虐げるのに憤って手ずから斬り殺した。桂芳が論を著して赦を擬すると、尚書の聞淵は、これは董仲舒の春秋による断獄、栁子厚の復讐の議だ、と言い、崔鑑は宥された。
- 聞淵が吏部に入ると桂芳を言官の職に就けようとしたが、桂芳は継母の病を聞いてにわかに帰郷を請い、留めようとしても聴かなかった。起用されて禮部に補せられ、遷って揚州知府となり、倭を防いで功があり、俸を一級進められた。また建議して外城を増築した。揚州に二つの城があるのは桂芳から始まる。
- 浙江左布政使を歴任し、右僉都御史に進んで福建を巡撫した。父の喪で帰郷し、もとの官で起用されて鄖陽を撫治し、まもなく右副都御史に進んで河道を總理したが、着任しなかった。
両広提督としての倭寇・群盗討伐
- 兩廣總督の張□(底本欠字)が軍旅の才でないとして弾劾され罷められた。部議で總督を廃することとなり、桂芳を兵部右侍郎兼右僉都御史に改めて兩廣の軍務を提督させ、あわせて巡撫を兼理させた。
- 兩廣の群盗のうち、河源の李亞元、程鄉の葉丹樓が数年来の患いであり、潮州では旧倭が鄒塘に屯拠していた。桂芳はまず倭を討ち、降った賊の伍端を先鋒とし、官軍を続かせて、一昼夜で三つの巣を克ち、四百余人を焼き斬った。帝は深くこれを嘉し、南贛提督の吳百朋とともに勝ちに乗じて賊を滅ぼすよう命じた。
- 福建を犯していた新倭が戚繼光に敗れて境内に流れ込んだ。桂芳と百朋は土兵・漢兵を集めて調え、到着したばかりを急襲した。倭は懼れてことごとく甲子・崎沙へ奔り、漁船を奪って海へ出たが、暴風が起こってみな覆り溺死した。逃れた者は海豐へ戻り、副總兵の湯克寛がほぼ残らず捕斬した。
- そこで桂芳は建議し、海道副使は東莞以西から瓊州までを管轄して番夷の市舶を掌り、あらためて海防僉事を設けて東莞以東から惠州・潮州までを巡らせ、もっぱら倭寇を防がせることとした。
- さらに進んで李亞元・葉丹樓を討って平定した。降った賊の王西橋と吳平は、いったん撫されて再び叛いた。西橋は東莞を掠め、都指揮の劉世恩の兵を破り、肇慶同知の郭文通を捕えて撫を求めたが、桂芳は捕えて斬った。
- 進んで吳平を討って平らげた。吳平ははじめ南澳に拠っていたが、戚繼光・俞大猷に敗れて饒平の鳯凰山へ奔り、民の舟を掠めて海へ出て、陽江から安南へ奔った。桂芳は安南の萬寧宣撫司に檄して討伐を進めさせ、湯克寛を遣わして舟師とともに合流させ、萬橋山の下で挟撃し、風に乗じて火を放った。吳平の軍は死者数知れず、三百九十余人を捕斬した。
- 參將の傅應嘉は、吳平はすでに捕えたと言い、のちに溺死したとも言った。福建巡撫の汪道昆がこれを奏聞したが、桂芳は認めず、風と火が交わり燃え盛るときに、どうして必ず死んだと分かるのか、と言った。
- 吳平の党である林道乾が再び南澳を窺うと、當時の議では參將を置いて戍守させることになった。桂芳は、澳の中は地が険しくかつ肥沃で、元の時に兵を置いて戍守させたところ、戍兵がそこに拠って叛いた、これは盗を防ぐつもりで盗を生むものだ、柘林に戍らせる方がよい、と言った。従われた。
漕運総督と治河
- 召されて南京兵部右侍郎となり、まもなく北の兵部へ改められた。隆慶初、左侍郎に転じ、病により帰郷を乞うた。言官がたびたび推薦し、萬厯三年(1575年)冬、その家でもとの官に起用され、漕運を總督し鳯陽を巡撫した。
- 翌春、桂芳は、淮揚の大水が奔流し、雲梯闗の一筋だけが海へ入る道であるため、海が湧いて砂を横たえ、河の流れが氾濫し、興化・鹽城・高郵・寳應の諸州縣が至るところ被災していると述べ、草灣および老黄河の故道をさらに開いて海へ入る道を広げ、高郵の東西二堤を修築して湖水を蓄えることを請うた。いずれも実施が議された。まもなく草灣の河工が完成した。
- 萬厯六年(1578年)秋、河が崔鎮および曹州・徐州など八州縣で決壊した。給事中の劉鉉が漕河を論じた疏の中で桂芳に触れた。桂芳は疏で弁明し、草灣を開いたのは高郵・寳應の水害が土地を削るのを浚って救うためであって、上流までも増水しないようにできるものではない。いま山陽以南の諸州縣は水が引いて種を播き、米一斗が四分である以上、臣のこの挙もすでに策を得ている。徐州・邳州以上は臣の管轄ではなく、臣の関わるところではない、と述べて、罷免を請うた。
- 御史の邵陛は、諸臣が河の増水を草灣のせいにして事にあたる気力を挫いている、桂芳を励ましていっそう成績を上げさせ、河臣の傅希摯の職務怠慢を詰責すべきだ、と言った。従われた。
- 翌年、傅希摯は崔鎮の決壊口を塞いで水を束ねて漕へ帰すことを議し、桂芳は水勢で洗い流して河をなし、老黄河が海へ入る道とすることを望んだ。廷議で二人の意見が合わないため、傅希摯を陜西巡撫に改めて李世達を代わりとしたが、まもなく李世達も他の任に改められ、桂芳に河と漕を兼理させた。
- 萬厯六年(1578年)正月、詔で工部尚書兼右副都御史に進み、職務はもとのままであった。一月と経たずに没した。まもなく高郵の湖堤が完成したことにより太子少保を贈られた。
傅希摯(附伝)
- 傅希摯は衡水の人。累官して右僉都御史となり山東を巡撫した。隆慶末、户部が兵糧の不足を理由に山東・河南の民兵の削減を議したが、希摯が争って中止となった。
- 河道總理に改められ、茶城が埋まったので、梁山以下から寕洋山を開いて右洪口へ出した。萬厯五年(1577年)、右副都御史に進んで陜西を巡撫し、のち户部右侍郎に遷ったが、隴右の礦賊が鎮まらないことを咎められて罷免が論じられた。
- 漕運總督に起用され、南京の户部・兵部の尚書を歴任し、召されて戎政を理めた。老齢を理由に弾劾され、太子少保を加えられて致仕した。