出自と宣府巡撫への抜擢
- 吴兑は字を君澤といい、紹興山隂の人。嘉靖三十八年(1559年)の進士。兵部主事を授けられ、隆慶三年(1569年)に郎中から湖廣參議に遷り、河南に調べられ、薊州兵備副使に遷った。
- 隆慶五年(1571年)秋、右僉都御史に抜擢されて宣府を巡撫した。吴兑は鄉試で高拱の門下から出た。高拱がはじめ罷相したとき、吴兑ひとりが潞河まで送った。高拱が再起して吏部を兼ねると、そこで抜擢された。及第から十三年で節鉞を得たのは前例のないことであった。
諸部の操縦と三娘子
- 当時、諳逹は封貢を受けたばかりで、昆都哷赫力と錫凌阿はひそかに両端を持し、その主である土黙特を助けて患いをなしていた。吴兑は智計があり、これを操縦して馴服させた。
- かつて諳逹が営を離れて狩りに出たのを偵知すると、五騎を従えてまっすぐその営へ向かった。守る者は驚いて弓に矢をつがえたが、従騎が「太師が軍を犒いに来たのだ」と叱ると、みな拝跪して迎え導き、酪を献じた。吴兑は廬帳を遍く見て回り、日暮れに帰った。
- 市に来た者が売り物の馬をひそかに盗むと、吴兑は人に棒で打たせ、今後また盗めば関を閉じて市を停める、と言った。諸部は奪われた馬を追い返し、その者を捕えて謝した。
- 錫凌阿が再び辺を騒がすと、諳逹は、宣府・大同は我が市場だ、動くなと戒めた。しかし錫凌阿はなお桀驁で、諳逹はいつも自分の馬を貢に代え、賞賜を得ても現地では受け取らず、また兵を遣わして車夷を掠めた。車夷は出自が知れないが、嘉靖年間に移ってきて史夷と雑居し、いずれも宣鎮の保塞に属していた。錫凌阿はこれを掠めてその長の格根を連れ去り、その二必濟は龍門の教場に駐した。
- 吴兑は、史と車は唇歯の関係で、車が掠われれば史はいっそう孤立すると考え、奏して堡を築いて住まわせた。使者を遣わして錫凌阿を詰責し、格根を返させ、その必濟を辺から遠ざけさせた。錫凌阿は必濟・烏蘭且沁・威烏紳を誘い、毎年、葛峪堡の器甲や牛羊を盗ませていた。吴兑はいずれも三娘子に付して罰させた。
- 三娘子は諳逹に寵愛されており、錫凌阿は嫉んでたびたび呪い罵った。三娘子は入貢して吴兑の軍中に宿ったとき、そのことを訴えた。吴兑は八寳の冠、百鳯の雲衣、紅の骨朶、雲の裙を贈った。これにより三娘子は吴兑のために力を尽くした。
- 錫凌阿と徹哩克は相次いで襲王し、いずれも三娘子を妻とした。三娘子は三代にわたって貢市を主宰した。
- 昆都哷赫力はかつて王に封ぜられることを求めたが、たまたま病死した。子の青巴圖は兵を擁して塞に至り、多くを要求した。吴兑は禍福を諭し、武を輝かせて震わせたので、青巴圖は懼れて貢は初めのとおりになった。
- 女の棟固は朶顔都督の長安に嫁いでいた。父に従って入貢した折に貧しさを訴えたので、吴兑はその兄弟に諭し、馬一頭ごとに繒一つを分けて与えさせた。のち棟固は、土黙特の別騎が三岔河の東を掠めることを報せ、吴兑は備えを固めて功を立てた。
宣大総督から薊遼総督へ
- 萬厯二年(1574年)春、款貢の功を推され、右副都御史を加えられた。貢市が終わると兵部右侍郎兼右僉都御史を加えられた。
- 萬厯五年(1577年)夏、方逢時に代わって宣府・大同・山西の軍務を總督した。諳逹が西へ瓦刺を掠め、迎佛と称して吴兑のもとに帑を預け、旗と箭を信として留めた。尚書の王崇古が方略を奏上し、吴兑に諳逹を諭させ、賀蘭山の後ろを回って甘肅の道を通らないようにさせ、またひそかにその企てを衞拉特に漏らした。諳逹の兵はそこで挫かれ、青海に留まって帰らなかった。
- 青巴圖がまた土蠻に付き、その部下が時に侵入した。大學士の張居正は吴兑に、諳逹を促して東へ帰らせ、これを約束させるよう命じた。青巴圖もその配下を罰したので、款貢はいっそう固くなった。
- 萬厯七年(1579年)秋、左侍郎として召還されて兵部に戻り、まもなく右都御史を加えられ、なお部の事を補佐した。萬厯九年(1581年)夏、本官のまま薊遼保定の軍務を總督し、順天の巡撫を兼ねた。
- 泰寧の蘇巴爾噶は青巴圖と通じ、ひそかに宣府で市に入りながら、毎年遼東を犯して款を要求した。朝廷は拒んで許さず、吴兑は義州城を修めて備えた。翌春、蘇巴爾噶が侵入すると、總兵の李成梁が撃ち斬り、その弟の綽哈と甥の婁徹伯爾は逃げ去った。詔により吴兑は兵部尚書に進み、なお右都御史を兼ね、まもなく太子少保に進み、召されて兵部尚書に拝された。
- 御史の魏允貞が、吴兑は高拱・張居正に代わる代わる取り入り、しかも馮保に金千兩を贈って封の記しが現に残っていると弾劾した。給事中の王繼光もまた吴兑が將吏の贈遺を受けたと言い、御史の林休徴が助けて攻めた。帝はそこで吴兑の辞職を許した。数年後に没した。
吴孟明(附伝)
- 孫の孟明は錦衣千戸を襲い、許顯純を補佐して北司の刑を掌った。天啟初、中書の汪文言を裁くにあたってかなり庇ったので、許顯純は怒り、亡命者を匿ったと誣告して本司に下し拷訊させ、籍を削られて帰郷した。
- 崇禎初、もとの官で起用され、累進して都督同知となり衞の事を掌った。孟明は在官中は貪であったが、東林に付いたのでかなり時の誉れを得た。
吴邦輔(附伝)
- 孟明の子の邦輔は職を襲い、やはり北司の刑を掌った。崇禎末、給事中の姜埰と行人司副の熊開元が言事によって同日に詔獄に繋がれ、帝は死罪にしようとした。邦輔はことさらにその獄を緩め、帝の怒りがやや解けてから、主使者を厳しく訊問せよと命じられると、邦輔はおおまかに訊いてそのまま獄を具えて上申した。詔で二人に杖百が与えられ、これによって死を免れた。