明史卷二百二十二 列傳第一百十 方逢時

字は行之、嘉魚の人である方逢時。嘉靖二十年の進士で、廣東兵備副使として程鄉の賊を鎮め、遼東巡撫を経て隆慶四年に大同へ移った。その冬、諳逹の孫の巴罕鼐濟が来降するとただちに受け入れ、總督の王崇古と計を定めて鮑崇徳を諳逹の営に送り、趙全らの引き渡しを実現させた。錫凌阿が兵を率いて大同に迫ったときも大義を説いて退かせた。萬厯初に王崇古に代わって宣府・大同・山西を總督し、約定と信義を明らかにして辺境を安定させ、盤道の険を開いて獨石と南山を結ぶ道を築いた。入朝に際して貢市の利害を論じた長文の上疏を行った。功名は王崇古に次ぎ、方王と並称された。萬厯二十四年に没した。

年表(5件)

出自と地方官の経歴

  • 方逢時は字を行之といい、嘉魚の人。嘉靖二十年(1541年)の進士。宜興知縣を授けられ、寧津・曲周へ再度移り、户部主事に抜擢された。工部郎中を厯て寧國知府に遷った。
  • 廣東・江西で盗賊が起こり、詔により興寧・程鄉・安逺・武平の間に伸威鎮を築くことになると、方逢時は廣東兵備副使に抜擢され、參將の俞大猷とともにこれを鎮めた。まもなく程鄉の賊が平らぎ、惠州の巡視に移った。
  • 隆慶初、宣府口北道に改められ右參政を加えられ、まもなく右僉都御史に抜擢されて遼東を巡撫した。隆慶四年(1570年)正月、大同へ移った。

巴罕鼐濟の受け入れと趙全の獲得

  • 諳逹が威逺堡を犯し、別部の千余騎が靖鹵を攻めたが、伏兵がこれを退けた。その冬、諳逹の孫の巴罕鼐濟が来降すると、方逢時は總督の王崇古に、機会は失えないと告げ、中軍の康綸に騎五百を率いさせて受け入れた。
  • 王崇古と計を定め、巴罕を人質にして叛人の趙全らを求めることとし、百戸の鮑崇徳を雲石堡から出して諳逹の部下の烏努珠に語らせた。巴罕を返してほしければ速やかに款を納めよ、兵を率いて来るのはその死を急がせるだけだ、と。烏努珠が諳逹に告げると、諳逹は鮑崇徳を営に招き入れ、趙全を引き渡して巴罕と換えるよう説かれて心を動かし、浩爾齊を遣わして方逢時に書を致した。
  • しかし趙全がしきりに用兵をそそのかしたので、諳逹はまた惑わされ、子の錫凌阿に二萬騎を率いて𢎞賜堡へ入らせ、兄の子の永什伯を威逺堡へ向かわせ、自身は衆を率いて平虜城を犯した。方逢時は、これは必ず趙全の謀だと言った。趙全はかつて方逢時に書を投じ、禍を悔いて漢を慕い中國へ帰りたいと言っていた。方逢時がその書を諳逹に示すと、諳逹は大いに驚き、趙全を捕える意を持った。戦って利あらず、そこで軍を引いた。

錫凌阿への対応

  • 錫凌阿はまだこれを知らず、突然に大同へ至った。方逢時は人を遣わして巴罕の矢を示し、自分はすでにおまえの父と約してこれを報せてある、と言わせた。錫凌阿は矢を執って泣き、これは我が弟の塔台吉の遺品だ、自分は巴罕を求めに来たが、巴罕はすでに官を授けられ約も成っているのだから改めて計るべきだ、と言い、部下の伊徳實を遣わして方逢時に会わせた。方逢時は大義を説き、犒って帰した。
  • 錫凌阿は喜び、そのついでに幣を求めた。方逢時は笑って、台吉は豪傑である、款を納めればまさに厚く爵賞を加えるのに、なぜこんな些細なものを惜しんで盛名を損なうのか、と言った。錫凌阿は大いに恥じ、伊徳實を遣わして、辺人は書を知らず太師の教えを蒙って幸いだ、と謝した。
  • 俺答の使者が故將の田世威のもとに至ると、世威もまた責めて、おまえは和を求めに来たのに兵は何のためか、と言った。使者が帰って報せると、諳逹は錫凌阿を召し戻した。錫凌阿は東へ宣府へ向かったが、總兵の趙岢に遏められ、また大同から北へ去った。
  • そこで巡按御史の姚繼可が、方逢時は賊と通じ、人払いして密談して東行を誘導し、禍を隣鎮に転嫁したと弾劾した。大學士の高拱は、撫臣が機に臨んで策を設けるのに漏らせるものではない、ただ後の効を見るべきで、事前に軽々しく交代させるべきでない、と述べ、帝もこれをもっともとした。
  • 諳逹はついに使者を遣わして約を定め、夜に趙全らを召して事を議すと称し、その帳中で縛って大同へ送った。方逢時がこれを受け取り、王崇古も巴罕を送り返した。方逢時は功により兵部右侍郎兼右僉都御史に進んだが、拝命したばかりで喪により帰郷した。

宣大総督としての再起と辺務

  • のち王崇古が京營を理めるため入朝すると、神宗が誰が代われるかを問い、大學士の張居正が方逢時を挙げた。萬厯初、もとの官で起用され宣府・大同・山西の軍務を總督した。
  • はじめ方逢時は王崇古とともに大計を決し、貢市の議は王崇古がひとりで成し遂げた。方逢時が王崇古に代わると、約定と信義を明らかにし、二人が首尾を合わせて助け合ったので辺境は安定した。
  • 方逢時は口北道の分巡であったとき、みずから塞外を行き、龍門の盤道墩以東から靖湖堡の山梁まで百余里が形勢として連絡しているのを見て嘆じた。ここは天険であり、修鑿すれば北は獨石に達し南は南山を援けられる、まことに陵京の一藩籬である、と。
  • 陽和道に赴き居庸から出関して辺務が整備されているのを見て、以前の計を併せて遂げようとし、上疏した。趣旨は、獨石は宣府の北にあって三面が敵に隣し勢いが孤立しており、懷來・永寧は陵寢と一山を隔てるのみで関係がとくに重い。その地はもともと相連なっているのに、通行路がまだ塞外にあるので声援が不便である。盤道の険を設けて迂回を捨て近道を取り、龍門・黒峪から寧逺に達すれば、三十里の行程で南山も獨石も朝発夕至となる。百里の地を拓くだけでなく、次第に屯牧の資も得られ、戦守ともに利がある、というものであった。
  • そこで巡撫の吴兑とともに経営して修築し、兵を設けて戍守させた。累進して兵部尚書兼右副都御史となり、總督はもとのままで、太子少保を加えられた。萬厯五年(1577年)、召されて戎政を理めた。

貢市の利害を論じた上疏

  • 当時、議者は貢市の利害を争って論じていた。方逢時は入朝に臨んで上疏した。趣旨は次のとおり。
  • 陛下の特恩で草土の中から起こされ王崇古に代わって任にあたり、陛下の神武に頼って八年、九辺は人口が日に繁く、守備は日に固く、田野は日に開け、商賈は日に通じ、辺民ははじめて生きる楽しみを知った。北の部は誠を輸して貢を効し、あえて約を破らない。歳時の請求には適宜応じており、菓や餅一つを得ても稽首して喜ぶ。人を掠めて賞を求めた逹賚明安圖のような者があれば、諳逹に告げて罰させ、すぐに従う。
  • 異議を唱える者は、敵の使者が満ちて害となる、日々費えが増して彼の欲は満たされない、賊と馴れ合いすぎて隠れた憂いが測りがたい、などと言う。その心は忠であるが、事の機微を見ていない。
  • 使者の入国は多くて八九人、少なくて二三人、朝に来て夕に去る。貢を守る使者も賞を受ければ帰る。どこが充斥か。
  • 財貨の費えには市の元手と撫賞がある。三鎮の歳費は二十七萬であり、以前の户部の客餉七十余萬、太僕の馬価十数萬に比べれば十のうち二三に過ぎない。しかも民間の耕穫の収入や市の商利は数えていない。節約は甚だ多く、どこが耗費か。
  • 憂いがあるとすればあるが、それは隠れてはいない。庚午(隆慶四年、1570年)以前は三軍が野に骨をさらし、万姓は流離し、城郭は丘墟となり、芻糧は尽き、辺臣は首領を保てず、朝廷は食事も遅れるほどであった。この七八年は幸いにそれがない。もし臣らが処置を誤り、小さな費えを惜しんで大きな信を欠き、一朝にして侵掠をほしいままにさせれば、前日の憂いはたちどころに現れる。何の隠れたことがあろうか。
  • 知りえないのは、諳逹が老いていることである。数年後にこの人が死ねば、諸部を統一する者がなく、狡猾な者どもが互いに争い、異なる口実を借りて侵擾するかもしれない。これは時勢の変で予測できない。その場合こちらは貢を罷め市を絶ち、関を閉じ塁を固めて待ち、辺將が軽挙しないよう禁じ、非は常に彼にあり理は常に我にあるようにして、機に応じて処置する。後人の方略いかんによるのみである。
  • そもそも封疆の事に定まった形も定まった機もない。ただ朝廷が人を得て処置が適宜であればよい。どうして貢市が非で戦守が是だと拘泥する必要があろうか。
  • また聞くところ、戎を禦ぐに上策はなく、征戦は禍、和親は辱、賂遺は恥である。いま貢と言うからには和親ではなく、市と言うからには賂遺ではない。貢もあり市もあるなら征戦はない。
  • 臣は幸いに威霊を藉りて強梗を制伏し、斧鉞の誅を免れた。いま命を受けて還朝し、もはや閫外の事に与らない。ただ、議者が貢市を計にあらずとして陳述し、国是が揺らげば、内では辺臣が畏縮し外では部落が離反し、事機が食い違って後悔しても及ばないことを恐れる。臣は去るとはいえ犬馬の心は一日も忘れられない。
  • 謹んで五事を列挙して上呈し、京に至って復奏し、款貢の図を上呈した。
  • まもなく王崇古に代わって尚書となり吏部の事を署理し、太子太保を加えられた。兩廣平定の功により少保に進んだ。たびたび疏を上げて致仕して帰り、御筆の「盡忠」の二字を賜わった。萬厯二十四年(1596年)に没した。
  • 方逢時は才略が明練で、辺事の処置はいずれも機宜に適っていた。その功名は王崇古に次ぎ、方王と並称された。