出自と髙拱・張居正
- 張孟男は字を元嗣といい、中牟の人。嘉靖四十四年(1565年)の進士。廣平推官を授かり、しだいに漢中同知に遷り、入って順天治中となり、累進して尚寶丞となった。
- 髙拱が内閣にあって吏部を兼ねたとき、その妻は孟男の叔母であったが、孟男は公事以外に私語を交えなかったので、拱は恨み、四年のあいだ昇進しなかった。拱が逐われると、親しい者はみな身を隠したが、孟男だけは拱の邸に留まって旅装を整え郊外まで送った。
- 張居正が用事するようになると孟男を太僕少卿に抜擢したが、孟男はまた附かず居正の意に叶わなかったので、長く異動しなかった。
- 居正が失脚してはじめて累進して南京工部右侍郎となり、まもなく召し入れられて本官のまま通政司の事を掌った。
上疏と南京の財政
- 萬厯十七年、帝が八か月も朝に臨まなかったとき、孟男は上疏して諫め、あわせて嶺南の人がもと都御史の李材の件を訴え、蔡の人がもと縣令の曹世卿の冤を訴えた章がともに宮中に留められ、その者たちは兵馬司に繋がれて食糧も続かず生死も定かでない、これは聖徳を損なうと述べた。帝は心を動かし、時おり一度は御門に出るようになった。
- のち戸部に改まり左侍郎に進み、まもなく南京工部尚書を拝し、そのまま戸部に改まった。当時、留都の備蓄は枯渇し、孟男が事を受けたときは粟がわずか二年ぶんしかなかったが、二年経たぬうちに七年ぶんの蓄えができた。
- 水衡が倉を修めたとき公の余剰金二千を出して助けた。ある者が「なぜ人の田を耘るのか」と言うと、孟男は「公家の事だ、区画の境目を引くものか」と答えた。
- 南京御史の陳所聞が孟男を貪鄙と弾劾したが、吏部尚書の孫鑨が孟男は忠誠謹恪であり臺臣の論ずる事は郎官に由来すると述べたので、帝は留めた。孟男が退官を求めても許されず、再度上疏してようやく帰ることを聴された。
- 久しくして召されて元の官を拝した。三十年春、礦税を罷める詔が出たが結局実行されなかったので、孟男は同列を率いて諫めたが報ぜられなかった。太子少保を加えられ、五たび章を上げて帰郷を乞うたが許されなかった。
遺疏
- 当時、礦税の患いは日に日にひどくなり、孟男は数千言の遺疏を草して極力その害を陳べた。
- 臣は地官(戸部)に員を備え、徴収する天下の租税はみな男を売り女を売り、骨を削り肉を割いた残りである。臣は催科を職としており、臣がその職を得れば民は病む。財を集めて民を病ませ、民を虐げて国を揺るがす。かかる臣を用いて何とされるのか。臣は哀鳴に堪えず、陛下のために憂いを抱くのみである、と。
- 子に託して上らせ、翌日ついに卒した。南京尚書の趙參魯らがその清忠を奏し、太子太保を贈られた。
衛承芳――清廉の名(附伝)
- 衞承芳は字を君大といい、達州の人。隆慶二年(1568年)の進士。萬厯年間に累進して溫州知府となり、公正廉潔で撫育に長けた。浙江副使に進んだが病と称して帰った。
- 推薦されて山東參政として起用され、南京鴻臚卿を歴任した。吏部が太常少卿の朱敬循を右通政に推し、承芳をその次席に置いたとき、敬循は大學士の賡の子であったので、賡は「承芳は臣と同年の進士で、その恬淡な操は世にまれなものです。臣の子を先んじさせるべきではありません」と言い、帝は許した。
- まもなく南京光禄卿に遷り、右副都御史に抜擢されて江西を巡撫し、贈答を厳しく断ったので属吏は争って自ら慎んだ。
- 入って南京兵部右侍郎となり、そのまま戸部尚書を拝した。福王が蘆洲を乞い、江都から太平に至る南北千余里にわたって自ら内官を遣わして課を徴そうとしたとき、承芳は抗して上疏し争ったが、ついに従われなかった。
- 萬厯年間、南京戸部尚書で清名のあった者は、前には張孟男、後には承芳が称される。まもなくそのまま吏部に改まり、在官のまま卒した。太子太保を贈られ、清敏と諡された。