出自と隆慶初の諫争
- 郝杰は字を彦輔といい、蔚州の人。父の銘は御史。杰は嘉靖三十五年(1556年)の進士に挙げられ、行人を授かり御史に抜擢された。
- 隆慶元年、畿輔を巡撫した。冬、敵が永平に大挙侵入したので、掠奪された地の徭賦を免ずるよう上疏して請い、あわせて近年の処罰が文臣には行われて武弁には緩く、主帥には及んで偏裨には略されていると述べ、法を整えて国威を振るうよう請い、いずれも可とされた。
- ついで薊督の劉燾、巡撫の耿隨卿が形勢を窺うばかりで、敵が退くと死者の首を斬って首功と報告したと弾劾し、また遼東の将士の棒槌厓の戦功を奪ったとして、あわせて副使の沈應乾、遊擊の李信・周冕の罪を論じた。帝は應乾を黜け、信と冕を獄に下し、燾と隨卿には郷里に還って勘問を待つよう命じた。
- 中官の李祐を遣わして蘇杭の織造を監督させる詔が出たとき、工部が執奏したが従われなかった。杰は、即位の詔書で織造を罷めてわずか一年で勅使をまた遣わすのは一貫した政ではなく、しかも内臣は専横で有司が下から剥ぎ取って奉ずることになり、聖徳の損なわれ方は小さくないと述べたが、帝はついに聴かなかった。
- 帝が南海子に行幸し京營の諸軍をすべて従わせるよう命じたとき、徐階・楊博らが諫めても聴かれず、杰もまた争ったが従われなかった。
- 刑部侍郎の洪朝選が拾遺によって罷められ上疏して自ら弁じたとき、杰らはその違制を弾劾し、朝選は削職となった。
- かつて髙拱を宰輔の器でないと論じたため憎まれ、拱が再び召されると杰は急ぎ去ることを請うた。拱が罷められると元の官で起用されたが、まもなく張居正が拱を逐ったのは正しくないと私的に議したため陕西副使として出された。さらに山東左布政使に遷ったが、弾劾されて遼東苑馬寺卿に降され、海道兵備を兼ね、山東按察使を加えられた。
遼東巡撫と李成梁の冒功
- 十七年、右僉都御史に抜擢されて遼東を巡撫した。諸将を督して敵を撃った功により一子に官を録された。
- 当時、李成梁が總兵官として威望が高かったが、功の上申には欺瞞がないでもなかった。敵が塞に入れば兵を収めて避け、退いてからその弱った者を追い、あるいは虚に乗じて小部落を襲い、塞に付いた者を誘い殺して首功に充てるのを常としていた。督撫の諸臣はこれを庇ったが、杰だけは与しなかった。
- 十九年春、成梁は參將の郭夢徵を用い、副將の李寧に鎮夷堡で拜甡を襲わせ、老弱二百八十余級を獲た。しかし帰路で別部に遮られ、寧が先に逃げたので将士数千人の半ば以上が失われた。成梁は功を飾って叙勲を求めたが、杰は上奏の草案を具えて率直にその実情を述べ、総督の蹇達に連名の上奏を求めた。達は草案を隠して自分だけで奏し功を論じた。
- 巡按御史の胡克儉が急ぎ上疏して寧を弾劾し、言葉が成梁にも及び、あわせて杰をもそしった。兵部が寧の罪を置いて議さなかったので、克儉は大いに憤り、成梁と達の隠蔽の状をすべて暴いた。
- 先に十八年冬、海州が十三日にわたって掠奪されたとき、副將の孫守廉は戦わず、成梁も救わなかった。克儉が守廉を弾劾すると申時行と許國がこれを庇い、勘問を命ずるにとどめた。そこで克儉は述べた。臣がはじめ守廉を弾劾したとき時行は書を以て臣を沮み、寧を弾劾したときは國とともに臣にその罪を寛くするよう諭した。私に阿り公に背き、辺事を壊すことになろう、と。あわせて一鶚・達および兵科給事中の張應登が奸を朋して欺いていると難じた。
- 達は杰が具えた功罪を会稿した疏を置いて奏せず、そこで成梁の数年来の冒功の状を追って数え上げた。帝は、成梁の前の功はみな巡撫の勘報によるもので、克儉は臆測で妄議していると言い、結局成梁らを不問に付したが、心中では杰を欺かぬ者と認めた。
- まもなくその地で右副都御史に進んだ。日本が朝鮮を陥れ、達が禆將の祖承訓に三千人を率いさせて赴かせたが全滅した。事が報ぜられると杰も弾劾されたが、帝は特に免じた。
- 朝鮮王が難を避けて遼に入ろうとしたとき、杰は境外の適地を選んで住まわせ、従う官と衞士に手厚く給するよう請い、可とされた。
- まもなく兵部右侍郎に遷り、薊遼保定の軍務を総督し、召されて戎政を理め右都御史に進んだ。日本の封貢の議が起こると、杰は「平秀吉の罪は誅しても足りぬのに、爵命を加えるとは。荒外がこれを聞けば中朝に人なしと言おう」と述べた。議が合わず、南京戸部尚書に移された。病と称して帰り、南京工部尚書として起用され、そのまま兵部參贊機務に改まり、在官のまま卒した。太子少保を贈られた。
扶克儉――遼東の巡按と復姓(附伝)
- 胡克儉は字を共之といい、光山の人。萬厯十四年(1586年)の進士。庶吉士から御史に改まり、山東を巡按した。遼東はその管轄であった。功を買い首級を盗む諸弊を禁ずるよう奏した。
- 成梁を弾劾してから要人に忌まれた。たまたま克儉が左都御史の李世達を、罪囚を曲庇したとして弾劾し「賊」とまで難じたので、執政は克儉がみだりに法を執る大臣を排斥した、言路に居らせるべきでないと言い、蘄水丞に謫された。上官に事で郷里へ帰され、居ること三十年に及んだ。
- 光宗が立つと光禄少卿として起用され、天啓年間に刑部右侍郎を歴任した。五年冬、逆党の李恒茂がその衰えを論じ、職を落とされて帰った。崇禎初に復官し、卒して尚書を贈られた。克儉はもと扶姓であったが胡姓を冒しており、久しくしてはじめて旧に復した。