明史卷二百二十 列傳第一百八 辛自修

出自と言官としての建言

  • 辛自修は字を子吉といい、襄城の人。嘉靖三十五年(1556年)の進士。海寧知縣に除せられ、吏科給事中に抜擢された。
  • 奏して述べた。吏部の銓注では人材を選ぶことも重要だが、土地を量ることはいっそう急務である。近ごろ京府の属吏で大計によって去る者は十のうち五に及ぶが、どうして都の膝下にだけ不肖の者が多いことがあろうか。土地が難儀で事務が煩雑だからである。土地の難易を量って官を除し、事務の繁簡を量って考課を注すよう請う、と。吏部はその言を善しとし、撫按の挙劾を自修の議のとおりにさせるよう請うた。
  • 京營を巡視して、営務を掌る鎮逺侯の顧寰と協理僉都御史の李燧を弾劾し、寰を戒め燧を罷めるよう請い、その通りになった。
  • 歴任して禮科都給事中となった。誠意伯の劉世延の不法を極力論じ、詔によって任を革め禁錮された。
  • 隆慶元年、給事中の胡應嘉が言事によって斥けられると、自修は上疏して救った。まもなく尚書の顧可學・徐可成、侍郎の朱隆禧・郭文英に贈られた諡を奪うよう論じた。可成は黄冠(道士)の出、文英は工匠の出、可學と隆禧はともに方薬によって進んだ者だからである。太僕少卿に抜擢されたが病と称して帰った。

保定の巡撫と京察

  • 萬厯六年、應天府丞として起用され、さらに光祿卿に遷り、右僉都御史として保定六府を巡撫した。均徭・里甲の銀六万両を減らすよう奏し、雄・任邱二縣の堤を増築して滹沱の水害を防いだ。
  • 毎年の防秋には巡撫が易州に移駐し、管下から費用を徴していたが、防秋が廃されてからも徴収は元のままだったので、自修は奏してこれを止めた。
  • 入って大理卿・兵部左右侍郎を歴任し、南京右都御史に抜擢された。御史の沈汝梁は下江を巡視した際、贈答を名目に管下の贖罪金をことごとく取り込んだ。自修が弾劾すると、帝はちょうど貪吏を懲らそうとしていたので汝梁の逮治を命じ、自修を召して左都御史とした。
  • 十五年の京官の大計では、政府が私人を庇って異己を除こうとし、吏部尚書の楊巍がその意を謹んで承けた。自修はこれを憂え、あらかじめ上奏して、愛憎を喜怒とせず孤立無援の人を排斥しないよう請うた。帝はその言を善しとしたが、政府は不快に思った。
  • 貪欲に競い合う者十余人はみな政府が厚遇する者で、自修は除こうとした。給事中の陳與郊は自らも免れぬと察し、「憲臣は一つの過失で人を棄て、一挙にして国を空にしようとしている」と言い立てた。そのため自修が斥けようとした者はみな免れた。

何起鳴事件と致仕

  • のち御史の張鳴岡らが拾遺を行い、まず工部尚書の何起鳴を挙げた。起鳴はもともと工事監督を通じて中官の張誠と親しく、かねて自修と仲が悪かったので、自修が私怨を挟んで指図したのだと暴き立て、與郊と給事中の呉之佳がこれを助けた。御史の髙維崧・趙卿・張鳴岡・左之宜は不平として、起鳴が非を飾り詭弁を弄したと弾劾した。
  • 帝は先に張誠の言を聞いていたので自修を疑っており、疏を得ていよいよ不快となり、「朝廷が一人を用いるたびに言官は紛々と排撃する。今、起鳴が去るなら、汝らはこの任に堪える者を挙げよ」と言った。維崧らは疏を具えて罪を引いただけで他に推挙しなかったので、帝は怒ってみな外に出した。
  • 給事中の張養蒙が救おうと申し立てて俸を奪われた。刑部主事の王徳新がさらに上疏して争い、言葉が嬖倖に及んだので、帝は詔獄に下し、酷刑で主謀を糾したが自白する所がなく、そこで籍を削った。
  • 自修は身の置き所がなく、急ぎ病と称して帰った。自修の登用はもともと執政の意ではなかったので容れられなかったのである。
  • 久しくして南京刑部尚書として起用され、さらに工部尚書として召されたが、着任せずに卒した。太子太保を贈られ、肅敏と諡された。徳新は安福の人で、のち起用されて光祿丞に至った。