出自と宦官・厰衛への諫言
- 舒化は字を汝徳といい、臨川の人。嘉靖三十八年(1559年)の進士。衡州推官を授かり、鳯陽に補され、戸科給事中に抜擢された。隆慶初、三たび遷って刑科給事中となった。
- 帝が宦官を任用し、旨がしばしば宮中から直接下されたので、化は述べた。法は天下の公器であり、大小の罪はすべて法司に付し、当を得なければ臣らが論劾する。もし直接勅で行われるなら、喜怒が必ずしも当を得ず、法司も臣らも無用の存在となる、と。詔はその言を是とした。
- 冬至の郊天のとき帝の咳の声を聞き、陰陽の姤・復の推移を論じて、天に法り微陽を養うよう請うた。言葉は甚だ切実で率直であった。
- 災異が重なるのは部院の政事が修まらぬためだとして、厰衛に密かに察させる詔が出た。化は同僚とともに述べた。厰衛が都下を巡るのは奸悪を詰り盗賊を禁ずるためにすぎない。百官を馭するのは天子の権であり、非法を糾察するのは臺諫の責である。厰衛の与る所ではない。今これに探索を命ずれば必ず罪を織り上げる門を開き、罠の術を弄し、禍を善良の輩に及ぼし、人々を身動きできぬようにする。それで何の政治になろうか。しかも厰衛は自ら廉察できず、必ず番校に委ねる。陛下は大臣を信ぜず、かえってこの輩を信ずるのか、と。御史の劉思賢らも極力その害を陳べた。帝はいずれにも従わなかったが、事は結局立ち消えとなった。
- 校尉が屍を負って北安門を出たのを兵馬指揮の孫承芳が見咎め、不正を疑って獄に繋ぎ取り調べたところ、供述が内官の李陽春に及んだ。陽春は恐れて帝に訴え、校尉が負っていたのは死人ではなく外に出てから死んだので、承芳が事を捏造して校尉を刑したのだと言った。帝はこれを信じて承芳を六十杖して民に落とした。化は陽春の奏を法司に下して勘問するよう請うたが、容れられなかった。
- 四年の熱審では囚われの臣である鄭履淳・李芳の釈放を請い、朝審のときも李の釈放を請い、いずれも許された。
高拱との対立と刑部尚書
- 当時、髙拱が国政を執っていた。路楷と楊順は沈鍊を陥れて殺した罪で死罪と論ぜられていたが、拱は楷を助けようとして、順が禍の首謀で順が死ねば楷は連座しなくてよいとした。化は獄の記録を取って拱に示し、「獄にはもともと鍊の名はなく、名が挙がったのは楷に始まる。楷こそ罪の首魁である」と述べた。
- 拱がまた方士の王金らの罪を宥そうと議したときも、化は「これは遺詔の意である。罪を問わぬというなら何と言うつもりか」と述べた。拱に忤らって陕西參政として出され、再度上疏して致仕し帰った。
- 萬厯初、累進して太僕少卿に抜擢されたが、また病で帰った。南京大理卿から召されて刑部左侍郎を拝した。
- 雲南の𬗟賊が平定され、帝が午門の楼に出て捕虜を受けたとき、化が奏詞を読み上げた。声は洪亮、進退は儀にかない、帝は目を留めた。ちょうど刑部の尚書が欠けていたので、手詔で化を用いた。
- 化は述べた。陛下の仁心は天性から出ている。知府の錢若賡、知州の方復乾は残酷のかどで死罪・戍罪となった。大小の臣僚に律例を遵守させ、みだりに刑を用いさせないようお命じ願いたい。『大明律』一書は高皇帝が両廡に掲げ、自ら手を加えて改定されたものである。今、まだ詳しく断じていないものを重く擬議するよう命じ、すでに定議したものにさらに等を加えて斬に処せと詔される。これでは律が用いるに足りぬと言うのに等しい。去冬は雨雪が時ならず、災異が頻りに現れているが、咎はここにあろう、と。帝は優詔を以て答えた。
- ちょうど『会典』の続修にあたり、嘉靖三十四年以後の事例で刑名に関わるもの三百八十二条を編んで奏し、詔によって中外に頒示された。
- 十四年、詔に応じて意見を陳べ、詔令を信あるものとし、獄訟を清め、訊讞を速やかにし、検験を厳しくし、冤罪と濫罰を禁ずるよう請い、天を格し民を安んずる根本は聖心にあると結んだ。帝は嘉して容れた。
- 帝は臣下の欺瞞を憂え、密告があるたびに官を遣わして逮捕させ、証人を引いて文案が積み重なった。化は、君主の術は要を執ることを貴び、有司の職を侵すべきではない、それでは人は過ちを上に帰し、下はかえってそれに乗じて非を飾ることになる、と述べた。
- 潞王府の小校が事によって兵馬司の吏目に笞たれたとき、帝は怒って吏目を逮え詔獄に下し拷問して死なせ、さらに捕卒七人を罪しようとした。化が争ったので、首謀の一人だけを罪し、他はみな宥された。
- 翌年の京察の拾遺で南京の科道官が化に言い及んだため、三たび上疏して帰郷を乞うたが帝は許さなかった。囚を審議すべき時に当たって再び出仕した。中貴が帝の意を伝えて重罪三千余人を宥そうとしたので、化は不可と争い、詔は結局その議に従った。まもなく重病と称してようやく帰ることを聴された。卒して太子少保を贈られ、莊僖と諡された。