出自と歴官
- 畢鏘は字を廷鳴といい、石埭の人。嘉靖三十二年(1553年)の進士。刑部主事を授かり郎中を歴任し、浙江提學副使に抜擢され、廣西右參政に遷り、按察使に進み、さらに湖廣左布政使に遷った。
- 太僕卿に召されたが赴任前に應天尹に改まった。海瑞が江南を巡撫したとき、京府に檄を移して属吏同様に扱ったが、鏘は受け取らなかった。瑞は鏘の政績を見てかえって親しくした。
- 南京戸部右侍郎に進んで糧儲を督理した。萬厯二年、入って刑部右侍郎となり、戸部に改まって倉場を総督し、南京戸部尚書に抜擢されたが病と称して去った。南京工部尚書として起用され、そのまま吏部に改まり、召されて戸部尚書となった。
九事の上申と晩年
- 帝が風霾(砂塵)を理由に担当官に時政を陳べるよう諭したとき、鏘は九事を上申した。そのなかで、錦衣の旗校が一万七千四百余人に及び、内府の諸監の句匠・役夫の数もこれに匹敵する、これは無駄飯食いの最たるもので、冒濫を排除すべきだと述べた。
- また、州縣の田地丈量は弊害を生み、雲南の鼓鋳は工賃に見合わず、官は裁いてはまた置き、田は墾こうとしてはまた停める。土地の習俗と人情を酌んで軽々しく変改しないよう請うた。
- さらに、衮服や錦綺は毎年余剰があるのに頻りに織らせる必要はなく、天燈は巨万の費用がかかるうえ道理に合わないから濫費を裁くべきで、無用の巧みは革めるべきだとした。その他の奏上も多く要点を突いていたが、近臣が中から妨げたため全部は行われなかった。
- 鏘は老齢を理由に罷免を乞い、駅伝を使って帰ることを許された。事にあたって正を守り人望があった。
- 八十歳に及んで慰問を賜り太子少保を加えられ、その後も二度慰問を受けた。孫の汝梗が表を奉じて謝しに入朝すると、詔によって大學生とされた。九十三歳で卒し、太子太保を贈られ、恭介と諡された。