明史卷二百十九 列傳第一百七 趙志臯

出自と入閣

  • 趙志臯、字は汝邁、蘭谿の人。隆慶二年(1568年)の進士及第で編修を授かり、萬厯の初めに侍讀に進んだ。
  • 張居正が奪情し、吳中行・趙用賢を廷杖にかけようとしたとき、志臯は張位・習孔教らとともに疏を上げて救おうとしたが差し止められて上がらなかったので、中行らの疏を史館に回付するよう請うた。居正は憤った。ちょうど星の変があって京朝官の考察が行われ、志臯は廣東副使として外に出された。三年後、再び京察で官を貶された。
  • 居正が没すると言者が相次いで薦め、解州同知として起用され、まもなく南京太僕丞に改まった。國子監司業・祭酒を歴任し、再び吏部右侍郎に遷った。いずれも南京での職である。まもなく召されて吏部左侍郎となった。
  • 萬厯十九年(1591年)秋、申時行が政を退くにあたり、志臯と張位を自分の後任に薦めた。そこで禮部尚書兼東閣大學士に進んで機務に参与した。
  • 翌年春、王家屏が罷められ、王錫爵は召されたがまだ着任していなかったので、志臯がしばらく首輔を務めた。ちょうど寧夏の変が起こり、軍事の多くを諮って決した。主事の岳元聲が錫爵を論ずる疏の中で、当路の者が変乱を起こし国を危うくしていると述べたことについて、主事の諸夀賢と給事中の許𢎞綱に反論された。志臯は重ねて弁じたが、帝はいずれも取り上げなかった。
  • 萬厯二十一年(1593年)に錫爵が還朝し、翌年五月に帰ったので、志臯がようやく国政を担った。

当国と諫言

  • 遼東で事を失い、詔で巡撫の韓取善を免職とし、副使の馮時泰を詔獄に逮捕したが、総兵官の楊紹勲は御史に問わせるだけであった。給事中の吴文梓らがその不公平を論じ、志臯もまた、辺境が敵に侵されたのは武臣の罪である、今紹勲を寛くして文吏を深く罪すれば、武臣はいよいよほしいままになり文吏はいよいよ気を落とす、と述べた。帝は従わず、時泰は結局戍に流された。
  • 皇太后の誕辰に帝が賀を受け終えて輔臣を暖閣に召したとき、志臯は御史の彭應參を宥すよう論じた。言官が織造の削減を乞うと、志臯らも言葉を合わせて請うた。さらに章奏を宮中に留め置く弊害を極論し、すべて諸曹に下して議し行わせるよう請うた。
  • 帝は中官の張誠の一味である霍文炳を憎み、言官がこれを摘発しなかったとして貶黜された者が三十余人に上った。志臯らは疏を連ねて諫めたが、いずれも容れられなかった。
  • 少傅・太子太傅を累加され、建極殿に改まった。
  • 当時、両宮が焼け、彗星が現れ、日食は九分あまりに及び、三殿がまた焼けるなど、数年の間に変異が続いた。志臯は罪己の詔を下すよう請い、あわせて疏を重ねて時政の欠点を述べた。その大きなものは国本を定めることと礦税を罷めることで、全部で十一条にわたったが、優詔で受け取ったと答えるだけであった。
  • 皇長子が十六歳のとき、志臯は元服と婚礼を行うよう請い、帝は礼官に儀を整えるよう命じたが、儀が上がっても実行されなかった。萬厯二十六年(1598年)三月、志臯らが再び言ったが、ついに許されなかった。

柔懦と弾劾

  • 張居正は国政を握って権勢が主を震わすほどであり、申時行がこれを継いでなお勢いは盛んで、王錫爵は剛直で気概を負い人も畏れた。志臯が首輔となったときは年七十余の老齢で、柔弱で怯懦であったため朝士に軽んじられ、罵声が四方から起こった。
  • 首輔になったばかりの頃、西華門の火災があり、御史の趙文炳が論難した。まもなく南京御史の桞佐と給事中の章守誠が、吏部郎の顧憲成らが官署を空にし追われたのは志臯が帝の怒りを煽ったからだと言った。ついで給事中の張濤・楊洵、御史の冀體・况上進、南京評事の龍起雷が相次いで攻撃し、巡按御史の吳崇禮はその子で両淮運副の鳳威を弾劾し、鳳威は俸を停められた。
  • まもなく工部郎中の岳元聲が志臯を放逐すべきだと極言し、給事中の劉道亨の非難はとりわけ激しかった。志臯は憤って、同じ閣臣でありながら、昔は勢いが重く権が一手に帰していたので皆がこぞって取り入って出世の手蔓とし、今は勢いが軽く権が分散しているので皆がこぞって攻撃して名を売る、と述べ、いよいよ切に退官を求めた。帝は慰諭した。
  • 初め日本との封貢の議が起こったとき、石星が強く主張し、志臯も無事に済むことを願って同調した。封の一件が破れると議者が蜂起し、星を弾劾する者は必ず志臯にも及んだ。志臯は論難されるたびに疏で弁じて退官を求めたが、帝はすべて留めた。初めのうちは言者を処罰して志臯に詫びたが、後には言者が増えたので多くは握りつぶして下さず、志臯を留める意はいっそう固かった。
  • 封の一件が大きく破綻し、星は欺罔の罪で獄に下されて死罪と論じられ、位も楊鎬の件で官を剥奪されたが、志臯はついに罪を問われなかった。
  • しかし志臯はすでに病んで政務を見られず、休職を乞うた。御史の于永清と給事中の桂有根がまた論難した。志臯は病床にありながら、礦税の廃止や建儲などの大政については、たびたび病を押して疏を草して争った。帝の季節ごとの恩賜も従来通りであった。
  • 志臯の病は重くなり、休暇のまま四年、疏を八十余度も上げた。萬厯二十九年(1601年)秋、邸で卒した。太傳を贈られ、諡は文懿。