明史卷二百十八 列傳第一百六 申時行
字は汝黙、長洲の人である申時行。嘉靖四十一年の状元で、張居正に文才を認められて入閣し、居正の死後は張四維に次いで首輔となった。居正時代の考成法を廃して寛大・簡易を旨とし、老成の士を順に登用したが、帝の意向に沿うことを第一としたため大きな建て直しはできず、言路とは日ごとに水火の仲になった。建儲を繰り返し請いながら、張有徳の一件で二心を疑われて弾劾を受け、辞職して帰郷した。萬厯四十二年に八十歳で卒し、太師を贈られ、諡は文定。
年表(7件)
- 嘉靖四十一年1562年進士第一(状元)で及第し、修撰を授かる
- 萬厯五年1577年禮部右侍郎から吏部へ移り、文章の力で張居正に認められる
- 萬厯六年1578年居正の帰郷にあたり東閣大學士を兼ね、機務に参与する
- 萬厯十二年1584年御史張文熙の閣権を削る議に疏で反論し、これを退けさせる
- 萬厯十四年1586年同列を率いて重ねて建儲を請うが聴かれない
- 萬厯十八年1590年毓徳宫で皇長子・皇三子に拝謁し、冊立の期限を示す詔を得る
- 萬厯四十二年1614年帝の遣わした行人が門に着いた日に八十歳で卒する
篇首の立伝者一覧
- 申時行(子の用懋・用嘉、孫の紹芳)
- 王錫爵(弟の鼎爵、子の衡)
- 沈一貫
- 方從哲
- 沈㴶(弟の演)
出自と入閣
- 申時行、字は汝黙、長洲の人。嘉靖四十一年(1562年)の進士第一(状元)で修撰を授かり、左庻子を歴任して翰林院の事を掌った。
- 萬厯五年(1577年)、禮部右侍郎から吏部に移る。文章の力で張居正に認められ、ふところ深く構えて角を立てなかったので、居正も彼を安んじた。
- 萬厯六年(1578年)三月、居正が父を葬るため帰郷するにあたり閣臣の増員を請い、時行は左侍郎のまま東閣大學士を兼ねて機務に参与した。のち禮部尚書兼文淵閣、さらに少傅兼太子太傅・吏部尚書・建極殿と累進した。
- 居正は長く権を握り、部下を濡れた物を束ねるように厳しく操って、意に沿わぬ者はことごとく追い払っていた。居正の死後、張四維と時行が相次いで政を執り、寛大を旨として老成の士を順に召し出して諸職に配したので、朝廷の評判はおおむね良かった。
- ただしこの時期は内閣の権が重く、六卿はおおむね閣臣の指示に従っていた。諸大臣も四維・時行の引き立てで出た者が多く、その寛大さを喜んで親しくした。四維が父の喪で帰ると時行が首輔となり、余有丁・許國・王錫爵・王家屏が前後して同じ政府にあったが、疑い合うことはなかった。
言路との対立
- 居正に抑えられていた言路がこの時ようやく物を言い始め、居正が平素かわいがっていた時行に対しても諷刺が向いた。時行は表向き寛容を装ったが、内心は快く思っていなかった。
- 帝は居正の短所を暴く発言は喜んだが、時事を論ずるのは嫌い、上言した者はしばしば左遷された。人々はこれを時行のせいと見て口さがなく謗り、諸大臣がまた時行の側に立って言者の口を塞いだので、言者はいよいよ憤り、時行は人望を損なった。
- 萬厯十二年(1584年)三月、御史の張文熙が、前の閣臣が専恣であった四つの事を挙げて永久に禁止するよう請うた。時行は疏で争い、次のように述べた。文熙は、部院の百執事に考成簿を置いて閣に送り査定させるべきでない、吏部・兵部の任官を一々閣の裁可に取るべきでない、督撫・巡按の行事を密掲で閣に指図を請うべきでない、票擬は同僚にも知らせるべきだ、と言う。しかし閣臣が職に堪えぬなら罷免すればよいので、職掌そのものを削るのは食物に喉を詰まらせて食を廃するに等しい。票擬もすべて同僚と議している、と。帝は深く納得し、文熙の議を退けた。
- 御史の丁此吕が、侍郎の髙啟愚は科挙の試題によって居正に帝位を勧めたと弾劾した。帝はその疏を自ら時行に示した。時行は、此吕はあいまいな事で人を死罪に陥れようとしており、讒言が続けば清明の朝にあるまじきことだと述べた。尚書の楊巍がこれを受けて此吕を外に出すよう請い、帝は巍の言に従った。しかし給事中・御史の王士性・李植らが相次いで、巍は時行に阿って言路を塞いだと弾劾し、帝もほどなく悔いて、啟愚を罷め此吕を留めよと命じた。
- 時行と巍は辞職を請うた。許國は、大臣は国体に関わるのに、今多くの声によって此吕を留めては時行・巍の心を安んじられぬと述べ、国はとりわけ憤って専らの疏で辞職を求め、言路の面々を罵った。副都御史の石星、侍郎の陸光祖も同じ趣旨を述べた。帝はそこで巍の言を聴いて此吕を外に出し、時行と國を慰留した。すると言路が一斉に國を攻撃した。時行が言者に相応の処罰をと請うたので、言者はさらに恨みを深めた。
- やがて李植・江東之が大峪山の夀宫の件で時行を揺さぶったが及ばず、貶されて去った。閣臣と言路は日ごとに水火の仲になった。
- 初め御史の魏允貞と郎中の李三才が科場の事を論じて時行の子の用懋に及び、官を貶された。給事中の鄒元標は時行の姻戚である徐學謨を弾劾して罷めさせ、時行は別の疏にかこつけて元標を追い出した。のち世論をうかがって三人の官を少しずつ引き上げ、三人は廃されずに済んだ。世間はこれをもって時行を長者と称した。
施政と諫言
- 時行は人心を収めようとして、居正時代の考成法を廃し、万事を簡易にした。献策も少なくない。
- 災異にかこつけて、催科の急迫、徴派の加増、刑獄の繁多、用度の奢侈の害を力説した。
- 撫按官が工事を助けるための贓罰銀を止めるよう請い、織造の数を減らすよう請い、諸司の章奏を速やかに発するよう促した。
- 尚寶卿の徐貞明の議によって畿内の水田を開くよう請い、鄧子龍・劉綎を用いて隴川を平定し、鄭洛を經畧に薦め、順義王を東へ帰らせるよう促し、葉夢熊の奏を採って楊應龍の変を鎮めた。
- しかしこの頃は天下太平で上下が安逸に流れ、法紀は次第に振るわなくなった。時行は帝の意向に沿うことを旨とし、大きな建て直しはできなかった。
- 帝は経筵の期日ごとにしばしば免ずるよう伝えた。時行は、講義を免じても講章だけは進上するよう請い、以後これが慣例となって、講筵はついに永く廃された。
- 評事の雒于仁が酒・色・財・氣の四箴を進めると、帝は大いに怒り、時行らを召して一条ずつ分析させ、重く処罰しようとした。時行はその章を下さぬよう請い、于仁には諷して自ら退かせた。于仁はこれで罪を免れたが、章奏を宮中に留め置いて下さないやり方はここから始まった。
建儲の争いと致仕
- 萬厯十四年(1586年)正月、光宗は五歳であったが、鄭貴妃が寵を得て皇三子常洵を生み、嫡を奪う意が芽生えた。時行は同列を率いて重ねて建儲を請うたが聴かれなかった。
- 廷臣は貴妃のことで宮闈を指弾することが多く、帝の怒りを買って厳しく処罰された。帝がかつて直言を求める詔を出した際、郎官の劉復初・李懋檜らが露骨に貴妃を非難した。時行は、諸曹の建言はその所管の職掌に限り、長官が選んで献ずることとし、直接上達させないよう詔を出すことを請うた。帝は大いに喜んだが、時行を咎める者は多かった。
- 時行は続けて建儲を請うた。萬厯十八年(1590年)、帝は皇長子と皇三子を召し、時行に毓徳宫で拝謁させた。時行は拝賀して速やかに大計を定めるよう請うた。帝は久しく猶予したのち詔を下し、朕は騒がしく責め立てられるのを好まぬ、近ごろ諸臣の章奏を一概に留め置いているのは、朕の父子を離間するのを憎むからである、来年廷臣が重ねて煩わさなければ再来年に冊立しよう、さもなければ皇長子が十五歳になるのを待って行う、と述べた。時行はこれを受けて廷臣を戒め、騒ぎ立てぬようにさせた。
- 翌年八月、工部主事の張有徳が冊立の儀注を用意するよう請うた。帝は怒って一年の延期を命じた。ちょうど内閣からも疏が入っており、時行は休暇中であったが、次輔が筆頭に時行の名を列ねていた。時行は密封の上書で、自分は休暇中で冊立の件はもともと関知していない、聖意はすでに定まっているのに有徳は大計を弁えぬ、ただ御自身の裁断に任せ、小臣のために大典を妨げられぬよう、と述べた。
- そこで給事中の羅大紘が時行を弾劾し、表では群臣の議に付いて冊立を請いながら、裏でその事を遅らせ、内と通じていると言った。中書の黄正賓も、時行は同僚を陥れて自分だけ首謀の罪を巧みに避けたと論じた。二人はいずれも黜責された。御史の鄒徳泳が重ねて疏を上げたので、時行は強く辞職を求め、駅伝を用いて帰郷する詔を得た。
- 帰って三年後に光宗はようやく出閣して講学し、十年後にようやく皇太子に立てられた。
- 萬厯四十二年(1614年)、時行は八十歳。帝が行人を遣わして安否を問わせたが、詔書が門に着いたところで卒した。先に雲南の岳鳳平定の功で少師兼太子太師・中極殿大學士を加えられていた。詔して太師を贈り、諡は文定。
子孫
- 子は用懋・用嘉。
- 用懋は字を敬中といい、進士に挙げられ、兵部職方郎中まで累進した。神宗は太僕少卿に抜擢し、なお職方の事を見させた。再び右僉都御史に遷って順天を巡撫した。崇禎の初め、兵部の左右侍郎を歴任して尚書に拝せられ、致仕して帰り卒した。太子太保を贈られた。
- 用嘉は挙人で、廣西參政を歴任した。
- 孫の紹芳は進士で、户部左侍郎。