明史卷二百十七 列傳第一百五 李廷機

出自と南京での治績

  • 李廷機は字を爾張といい、晉江の人。貢生として太學に入り、順天郷試で首席、萬厯十一年(1583年)の会試もまた首席、進士第二で編修に任じられ、たびたび遷って祭酒となった。
  • 旧例では祭酒が視事するたび、二人の生員がともに一枚の牌を掲げて前に至り、そこには「整齊嚴肅」の四字が大書されていた。高皇帝が師儒を警めるために作られたものである。廷機はこれを見て慄然とし、その教えは一に厳を主とした。
  • 久しくして南京吏部右侍郎に遷り、部の事を署した。二十七年(1599年)に京察を主宰して偏私が無かった。かつて戸部・工部二部の事を兼署し、総理は精密であった。御用商人を憐れみ救う四事を奏行し、商人の困窮は大いに緩和された。外城や陵の垣を多く修繕したが、費用はみな公帑の余剰から取り、民を煩わさなかった。
  • 禮部右侍郎に召されたが四度辞して許されず、二年を越えてはじめて任を受けたときには、すでに左侍郎に進んでいた。そこで郭正域に代わって部の事を視た。

妖書の獄と礦税

  • 折しも楚王華奎は、正域が自分の贈り物の書状を暴いたことから、正域が公表しなかった数事を誣告した。廷機の意は楚王に味方しながら、わずかに正域を弁護した。大學士沈一貫が妖書に藉りて正域を倒そうとしたとき、廷機は御史の沈裕・同官の涂宗濬とともに署名して、皦生光の獄を速やかに決するよう上申し、連座は絶えた。
  • 三十三年(1605年)夏、雷が郊壇を震わせた。同列を率いて修省の事宜を条上したうえで、あらためて「今日の欠失で礦税に及ぶものは無い。罷めて撤するべきである」と言ったが、返答は無かった。その冬、四方の災異をまとめて上げた。
  • 秦王誼漶は中尉から進封された者で、その庶長子は本来の爵を授かるべきなのに、伝手を頼って郡王に封じてもらおうとした。廷機は三度上疏して力めて持し、王が人を遣わして仲立ちさせても固く拒んだが、特旨で許された。益府が服喪中に封を請うたときも、不可として持した。

言路との衝突

  • 廷機は事に当たって執るところがあり、とりわけ廉潔で、帝もそれを知っていた。しかし性質は刻薄で、またかなり偏屈で大体に通じていなかった。楚の宗人華趆が楚王を告発した件について、撫按の官がすでに爵を奪って高牆に幽閉することを擬したのに、廷機は祖訓の親王を謀害する例を援いて死罪に処すことを議した。
  • 言路の勢いが強く、政府も銓曹も畏れて年例による外任の人事を出せず、年例は廃された。禮部主事の聶雲翰がこれを論じ、廷機は言路の意を迎えて雲翰を考察の対象に入れた。給事中の袁懋謙がこれを弾劾し、廷機は退職を求めたが許されなかった。
  • 当時、内閣は朱賡ひとりだけで、給事中の王元翰らは廷機が入閣するのを慮ってしばしばひそかに謗った。三十五年(1607年)夏の廷推で閣臣が挙げられ、廷機は果たしてこれに与った。給事中の曺于汴・宋一韓、御史の陳宗契が不可とし、長く持ち合ったが、結局名を列ねて上げた。

入閣と一年余りの籠居

  • 帝は素より廷機を重んじ、禮部尚書兼東閣大學士として機務に参ずるよう命じた。廷機は三度辞してはじめて視事した。元翰と給事中の胡忻が攻撃をやめず、帝は廷機を慰めるため彼らの俸を奪った。やがて姜士昌・宋燾が廷機を論じて黜けられ、世論はいよいよ憤った。廷機は力めて弁じて罷免を求め、また上疏して去るべき十の理由を陳べたが、帝は慰諭を加えるばかりであった。
  • 翌年四月、主事の鄭振先が賡の十二の罪を論じ、あわせて廷機にも及んだ。廷機はたびたび上疏して休職を乞い、門を閉じて数か月出なかった。言者はそれが偽りだと疑い、数十人が続けざまに力めて攻撃した。廷機は去ることを求めてやまなかったが、帝はたびたび詔して留めるよう勉め、かつ鴻臚を遣わして出仕を促した。堅く臥して起たず、命を待つこと一年余り、そこで荒れた廟に籠もった。廷臣にはなお煩わしい言があった。
  • 四十年(1612年)九月に至り、上げた疏はすでに百二十余通に及び、そこで陛辞して都を出て命を待った。同官の葉向高が「廷機はすでに発ったのだから、再び引き止められない」と言い、太子太保を加え、道中の費用を賜り、駅伝の車と行人の護送で帰らせた。四年して没した。少保を贈られ、文節と諡された。
  • 廷機は閣籍に列ねること六年、政を執ったのはわずか九か月で大過は無かった。しかし言路は、彼が申時行・沈一貫らと密かに授受があったとして、続けざまに追い出した。輔臣が中傷を受けて辱められ、積年閉じこもってのちに去った例は、これ以前に無い。
  • 廷機が輔政のとき、四川巡撫の喬璧星が鎮雄の安堯臣を討とうと勇み、貴州の守臣と議論が決しなかったが、廷機は撤兵を力主し、その後ついに事は起こらず、議者はこれを称えた。
  • 閩の人で入閣したのは楊榮・陳山ののち、言葉が分かりにくいとして二百年近く絶えていた。廷機がはじめて葉向高と並んで命ぜられ、のち周如磐・張瑞圗・林釬・蒋徳璟・黄景昉が相次いだという。