明史卷二百十七 列傳第一百五 王家屏

字は忠伯、大同山陰の人である王家屏(?–?、享年六十八)。隆慶二年の進士。世宗實錄の修撰では髙拱の兄の不正をそのまま書いて動じず、張居正の病中も祈禱に加わらなかった。史官を離れてわずか二年で東閣大學士として機務に預かるという前例のない抜擢を受け、朝に出ない神宗を繰り返し諫め、雒于仁の四箴の件では自ら罪を引き受けて于仁を救った。皇太子冊立をめぐって閣臣が去就をかけて争ったときは独り閣に留まって決断を促し、申時行らが去ったのち首輔となったが、李獻可らの譴責に御批を封じ返して力諫し、半年余りで辞職して帰郷した。剛直によって国を去り、朝野はこれを惜しんだ。少保、のち太保を贈られ、諡は文端。

年表(6件)

篇首の立伝者一覧

  • 王家屏
  • 陳于陛
  • 沈鯉
  • 于慎行
  • 李廷機
  • 呉道南

出自と入閣

  • 王家屏は字を忠伯といい、大同山陰の人。隆慶二年(1568年)の進士、庶吉士に選ばれ編修に任じられ、世宗實錄の修撰に加わった。
  • 髙拱の兄の捷は以前に操江都御史であったとき、官庫の金を趙文華に贈っていた。家屏はこれをそのまま書いた。当時、拱は国政を握っており、少し言葉を和らげるよう頼んだが、家屏は頑として応じなかった。
  • 萬厯の初め、修撰に進んで日講官を務めた。奏上は切実で、帝は容を改めて聴き、「端士」と称した。張居正が病に臥したとき、詞臣はこぞって祈禱に奔走したが、家屏だけは行かなかった。
  • 再び遷って侍講學士。十二年(1584年)、禮部右侍郎に抜擢され、吏部に改まり、わずか一か月余りで左侍郎兼東閣大學士として機務に預かるよう命じられた。史官を離れて二年で輔政に加わったのは前例が無い。
  • 当時、申時行が国政を執り、許國・王錫爵がこれに次ぎ、家屏は末席であった。事を議するたびに正を執り法を守り、たかぶらず、なびかなかった。

朝に出ない帝を諫む

  • 二年を越えて継母の喪に遭い、詔で銀と幣を賜り、駅伝の車で行き行人が付き添った。喪が明けると詔で禮部尚書に進められ、行人を遣わして召還された。
  • 京師に着いて三か月たっても謁見が得られず、家屏はこれを言上し、聖節に殿に出御して賀を受けたのち、宮中に留め置かれた章奏を下し、皇太子冊立の礼を挙行するよう請うたが、返答は無かった。同官と重ねて上疏して請い、帝は万寿節にようやく一度、無理に出御した。
  • ほどなく中官を遣わして家屏を諭し、忠愛の心を奨めた。家屏は疏で謝し、あらためて朝に出て政を視るよう請うた。数日して帝は一度だけ御門で引見したが、以後はいよいよ深く籠もって出なくなった。
  • 評事の雒于仁が四箴を進め、帝が重い罪に処そうとした。家屏は言った。人主の起居出入の節度、耳目や心の楽しみは、下級の官には知りようがなく諫めようもない。輔弼の臣こそが先に知って予め諫めるべきで、だからこそ欲を微かなうちに防げるのである。いま于仁が下僚として上言したのに、臣は密勿の位に在りながら黙してへつらい、上は聖明の誉れを損ない、下は下僚を測り知れぬ威に陥れた。臣の罪は大きい。なお一日でも聖世に立っていられようか、と。帝は不快で疏を宮中に留めたが、于仁は無事に去ることができた。

旱により辞任を乞う

  • 十八年(1590年)、長い旱魃を理由に罷免を乞い、上言した。
  • 近年、天が鳴り、地が震え、星が隕ち、風は土を巻き、川は涸れ河は乾き、加えて旱・水・蝗・螟・疫癘・夭死が続く。陰陽を調える難しさは今日ほど甚だしいことはない。まして套の賊は陝右に跳梁し、土蠻は遼西に猖獗をきわめ、朝貢と互市を許された属国までが宣府・大同で虎視眈々としている。内を虚しくして外に事を構え、内はすでに尽きたのに外患は止まない。民を剥いで軍に供し、民はすでに窮したのに軍糧は足りない。
  • そのうえ議論は紛糾して大体を守る者が少なく、帳簿は雑然として空文を飾り、綱紀は緩み、怠りの習わしが定着し、名と実は入り混じり、僥倖を頼む風が開かれた。陛下はまた深く籠もって静養され、朝講に臨まれることはまれで、臣は一年のあいだにわずか二度、天顔を拝したにすぎない。時に愚見を進めても、諸司の章奏とともに寝かされて行われない。
  • いま照りつける日は石を焼き、小民の愁え苦しむ声は天地を震わせているのに、ひとり宮門の内にだけ届かない。臣が夜半に彷徨し飲食も廃してやみがたい所以である。罷免して帰らせ、賢者の道を空けさせていただきたい、と。返答は無かった。

冊立をめぐる争い

  • 当時、儲位(皇太子)は定まらず、廷臣は次々に上章して冊立を請うていた。その年十月、閣臣は連名で去就をかけて争ったが、帝は不快で、数百言の諭を伝えて廷臣が名を売り騒ぎ立てていると切責し、「悖逆」とまで指弾した。時行らは顔を見合わせて驚き、それぞれ疏を具えて再び争い、門を閉じて辞職を乞うた。
  • ひとり家屏だけが閣に留まり、速やかに大計を決するよう請うた。帝はそこで内侍に、翌年の春夏、廷臣が上奏して騒がなければ冬のうちに議して行う、さもなくば十五歳を過ぎるのを待て、と伝えさせた。家屏は口頭の勅では拠りどころにならないとして、帝に特に詔諭を頒つよう望み、その場で草案を作って進めた。帝は用いず、あらためて二十年(1592年)春に挙行すると諭した。
  • 家屏は喜んですぐ外廷に示し、外廷は歓んだ。しかし帝の意は実はためらっており、家屏が公示したと聞いて快く思わず、諭を伝えて詰責した。時行らが揃って謝罪してようやくやんだ。
  • 翌年秋、工部主事の張有徳が冊立の儀注を請うと、帝はまた騒ぎ立てるものとしてその事を止めさせた。國は執って争って去り、時行は人の非難を受けてやむなく去り、錫爵は先に親を見舞うため帰っていたので、家屏がついに首輔となった。國の諫疏にすでに名を連ねていた以上ひとり留まるべきでないとして、再び上疏して罷免を乞うたが許されず、そこで職務に就いた。
  • 家屏は身の処し方が端正厳格で、誠意を推し公正を守り、諸官庁の事を一切妨げなかった。性質は忠直で直諫を好んだ。冊立の期日がたびたび変わって内外の議論が紛然としたので、家屏は深く憂え、大信を実行して口さがない言を塞ぎ宮中の亀裂を消すよう力請したが、返答は無かった。

李獻可の件と辞職

  • 二十年(1592年)春、給事中の李獻可らが皇儲の豫教を請い、帝はこれを黜けた。家屏は御批を封じ返して力諫し、帝はいよいよ怒って、譴責・左遷される者が相次いだ。家屏はそこで病を理由に罷免を求めて上言した。
  • 漢の汲黯は「天子が公卿輔弼の臣を置くのは、追従して意に迎え主を不義に陥れさせるためか」と言った。この言葉に触れるたび、内心恥じ入る。近年、宮門は重く閉ざされ、安逸のなかに毒を懐き、郊廟の祭祀は行われず、君臣は交わらず、天災や物怪は天聴に届かず、国計と民生は聖慮に関わらない。臣は輔弼に列しながら職を空しくして久しく、退くべきである。
  • この数か月、朝講を請い、廟饗を請い、元旦の受賀を請い、大計と臨朝を請うたが、ことごとく寝かされて返答が無い。臣の犬馬の微誠が天意を動かし返せないのはもはや明らかである。
  • 皇儲の豫教はもとより早く計るべきなのに、なぜ直言を聞くのを厭い、一様に貶謫を加えられるのか。臣はまことに、明主が諫を拒む名を負い、太平の朝に不当な罰があるのを見るに忍びない。ゆえに死を冒して繰り返し陳べる。もしあいまいに禄を保ち、汚れて世に容れられるなら、汲黯のいう「主を不義に陥れる者」である。臣は死んでもそれはできない。骸骨を賜り田里に還していただきたい、と。
  • 帝は奏を得たが下さなかった。次輔の趙志臯もまた家屏のために上申した。帝はそこで家屏を「名を求めて病に託した」と責めた。
  • 家屏はまた奏して言った。名は臣が敢えて棄てられるものではない。ただ臣の求めるところは、陛下が堯舜の主となり臣が堯舜の臣となることであって、さすれば名は千載に垂れ、没しても余栄がある。もしいたずらに逆鱗に触れ、抗争して事をしくじり、譴責を受けて罷免帰郷するなら、何の名があろうか。
  • 必ず名を求めないというなら、臣が高官に身を置き厚禄を享けながら、主の過ちを正さず政の乱れを匡さないのを「名を求めない臣」というのであろう。国家は何を頼りにするのか。さらに臣に名を棄てて顧みず、迎合して喜ばせ、阿諛して容れられよというなら、許敬宗・李林甫の姦佞も何でもできることになる。九廟の神霊が必ずひそかに臣を誅するであろう。どうして李獻可ら諸臣に罪を得るだけで済もうか、と。
  • 疏が入ると帝はいよいよ不快で、内侍を邸に遣わし「ただちに御批を論駁して主の怒りを激し、かつ病に託して君に要求した」と責めさせた。家屏は、言葉が至親に及ぶことに怒られるべきでなく、事が典礼に関わることに怒られるべきでない、臣と諸臣はただ宗社の大計のため言を尽くし忠を効すことを知るだけで、どうして皇上の怒りを激そうと意図しようか、と言った。
  • そこで去ることをいよいよ強く求めた。ある者が少し待って大事を成せと勧めると、家屏は「人君が思うままにふるまえるのは、大臣が禄を保ち小臣が罪を畏れ、下の者を軽んずる心があるからだ。私の考えでは、大臣が爵禄を惜しまず小臣が刑誅を畏れなくなれば、事はいくらか成るだろう」と言った。そこで重ねて二通の疏で懇請し、詔で駅伝の車により帰郷した。

晩年と識見

  • 家屏が国政を執ったのは半年余りにすぎず、しかもその大半は門を閉じていた。剛直によって国を去り、朝野は惜しんだ。
  • 九年を経て儲位がようやく定まると、官を遣わして勅を齎して安否を問い、金幣・羊・酒を賜った。さらに二年して没した。年六十八。少保を贈られ、文端と諡された。熹宗が立って重ねて太保を贈り、一子を尚寳丞に任じた。
  • 家屏が郷里に居たころ、朝鮮で用兵があり、經略の顧養謙に書を送って言った。昔、衛が狄に滅ぼされたとき、齊桓公は諸侯を率いて楚邱に城を築いた。春秋はその義を高しとしたが、そのまま狄と仇して諸侯の兵を連ね伐ったとは聞かない。いまはただ会稽の恥をそそぐ思いで朝鮮を励まし、楚邱に城を築く功に当て、将吏を奨め率いて、主とならず客となるようにすればよい、と。
  • 養亷(養謙の誤りか)はこれを用いることができず、朝鮮の兵は数年功が無かった。その深い見識と謀は、みなこの類であった。