出自と講筵
- 余繼登は字を世用といい、交河の人。萬厯五年(1577年)の進士、庶吉士に改められ、檢討に任じられた。㑹典の修撰に参加してこれが成り、修撰に進み、経筵で直講した。
- ついで右中允に進んで日講官を務めた。当時、講筵は長く中断し、侍臣は忠を尽くす機会が無かった。繼登は同官の馮琦とともに通鑑講義を進め、あわせて時政の欠陥を伝えた。
- 少詹事兼侍讀學士を歴任し、正史の副總裁を務めた。のち詹事に抜擢され翰林院を掌った。
- 両宮に火災があると、諸講官とともに洪範五行𫝊を引いて切に諫めたが、返答は無かった。
災異を挙げて礦税を諫む
- 禮部右侍郎に進み、二十六年(1598年)に左侍郎として部の事を摂した。
- 陝西・山西の地震、南都の落雷による火災、古浪の鐘がひとりでに鳴ったこと、紹興で地から血が湧いたことなど、繼登は年末にまとめて奏上し、あわせて民を害する一切の誅求と開採を罷めるよう請うたが、当時これは用いられなかった。
- 雷が太廟の樹を撃つと、あらためて帝みずから郊祀と廟享を行うこと、元子(皇長子)を冊立すること、礦税を停めて中使を引き揚げることを請うた。帝は手厚い詔で聞き置いたのみであった。
- まもなく本部(禮部)の尚書に抜擢された。播州の楊應龍を討とうとしていたので、繼登は四川の礦税を罷めて軍糧の助けとするよう請うた。
- さらに上言した。近ごろ星の運行が度を失い、水旱の災いがあり、太白が昼に見えるのは天が和していないのである。山を鑿ち鉱を開き、地を裂いて砂金を求め、狄道では山崩れと地震を招いた。これは地が和していないのである。民間は困窮しているうえに誅求が加わり、国庫は空なのにさらに珠宝を責め、奸民は蟻のように群れ、中使は猛禽のようにのさばり、中央と地方は塞がり上下は交わらない。これは人が和していないのである。
- 戻気が凝って散らず、怨毒が結んで形をなし、丘と谷が入れ替わり高低が位置を変えるのは、陰が陽に乗り、邪が正を干し、下が上に叛く象である。臣子が君父を感動させられず、言葉を重ねるほど厭われる。ゆえに天が異常の変を示して陛下を警め悟らせているのに、なお平然としていてよいものか、と。帝は省みなかった。
- 繼登は部の事を自ら署するかたわら、元子の冊立と冠婚の礼を請う疏をたびたび上げたが、聞き入れられず、鬱々として病を得た。そのことに触れるたび涙を流し、「大礼が挙がらねば、私は礼官として死んでも目を閉じられぬ」と言った。
- 病が三か月に及び、続けて上章して引退を乞うたが許されず、俸給の停止を請うたがそれも許されず、ついに官にあるまま没した。太子少保を贈られ、文恪と諡された。
- 繼登は素朴・実直で慎み深く、口数少なかったが、大事に当たっては議論が明快で、家では清廉倹約であった。學士の曽朝節がその里を訪ねたとき、蓬や蒿が小道いっぱいに茂っていた。危篤のとき見舞うと、粗末な布の掛け布団にくるまり、羊の粗毛を足に掛けているだけであった。幼い子が諸生の試験を受けたとき、夫人が一言口添えを頼んだが、最後まで承知しなかった。