出自と張居正の奪情
- 黄鳯翔は字を鳴周といい、晉江の人。隆慶二年(1568年)の進士及第で編修に任じられ、内書堂の教習となり、前代の史書から宦官の行状で戒めとなる事例を集めて誦習させた。世宗實録が成って修撰に進んだ。
- 萬厯五年(1577年)、張居正の奪情に諫言した者たちが杖刑を受けると、鳳翔は憤り、朝廷で公然と論じた。章奏を編纂する際、諫言の疏をことごとく載せた。
- 居正の二子が会試に際して意を通じてきたが、鳳翔は厳しく拒んだ。南畿の試験を主宰することになったときも、王篆がその子を私しようとしたので、辞退して行かなかった。
経書の講義をめぐる上疏
- たびたび遷って南京國子祭酒となり、母を見舞うため帰郷し、のち北監(北京の國子監)に補された。
- 当時ちょうど十三經註疏を校刻していた。鳳翔は上言した。近ごろ陛下が貞觀政要をやめて禮經の進講に移られたのは大変結構である。曽子の孝を論ずる語に「父母の遺体を敬う」とあるのを読まれたなら、御身を大切にされることを思われるべきである。學記の「学んでのちに足らざるを知る」を誦されたなら、聖学を継ぎ明らかにされることを思われるべきである。月令篇が四時に応じて政を布き天の運行に法ることを察せられれば、聖治が勤め励むべきものだと分かる。世子篇が保傅の教えと学に列する儀礼を陳べるのを繹ねられれば、皇儲を早く立てて豫め教えるべきだと分かる、と。疏は聞き置かれた。
- ついで禮部右侍郎に抜擢された。
洮河の警報に際する上疏
- 洮河で警報があると、抗議の上疏をして言った。多事の秋であるから、陛下は遊宴を退けて政務に親しみ、内を安んじ外を攘うことを実際に図るのを今の大計とすべきである。その要は人を用いることと財を理めることの二つに尽きる。
- 宋臣の言葉に「平生に極言敢諫の臣がいなければ、難に臨んで敵愾致命の士はいない」とある。鄒元標は直言と気節で知られ、銓司はとくに召し出すよう擬した。その他、建言によって遷謫された潘士藻・孫如法らも量移(近地への転任)を擬したが、いずれの疏も途中で握りつぶされた。士気は日々くじけ、言路は日々塞がる。平生ただ禄を懐い交わりを養う者が、難に臨んで誰が国家のために身を捨てて力を尽くそうか。
- 昔、宋の藝祖(太祖)は絹二百万を蓄えて遼人の首と換えようとし、太宗は内蔵の上供物を移して用兵と養士の資とした。いま戸部が歳ごとに二十万を進めるのは、もともと旧来の額ではなく、積もって常供となったものである。陛下は四海を富み有しながら、なぜ自ら私財を蓄えられるのか。
- ひそかに見るに、都城の寺観は丹碧きらびやかで、寺への供奉や齋醮の祈禳、どれ一つとして内帑を費やさぬものはない。冥漠の鬼神に福を求めるより、生き残った赤子(民)に広く施すほうがよい。
- 帝は用いることができなかった。
冊立の議と晩年
- 廷臣は皇太子冊立を争って長く裁可を得られなかった。帝が閣臣に翌春に挙行すると諭し、大學士王家屏がこれを禮部に伝えた。鳳翔は尚書の于慎行・左侍郎の李長春とともに冊立の儀礼を上げたが、帝は怒って一同の俸を奪い、意向はまた変わった。鳳翔はさらに上疏して争ったが返答は無く、そこで休暇を請うて去った。
- 二十年(1592年)、禮部左侍郎の韓世能が去り、張一桂が着任しないまま没したので、あらためて鳳翔を起用して代えた。
- ついで吏部に移り、南京禮部尚書を拝したが、親の扶養のため帰郷。再び旧官に起こされたが、親が老いていることを理由に固辞した。久しくして母が没し、そのまま出仕せず、家で没した。天啓の初め、文簡と諡された。
韓世能――附伝
- 韓世能は字を存良といい、長洲の人。鳳翔と同年の進士である。庶吉士から編修に任じられ、世宗・穆宗の實録の修撰に参加し、経筵日講官を務め、侍讀・祭酒・禮部侍郎を歴任し、庶吉士の教習に当たった。館閣の文章はこの科(この年の合格者)がもっとも盛んであった。
- 世能はかつて朝鮮に使いしたが、贈り物は一切受け取らなかった。