五事の上奏
- 劉奮庸は雒陽の人。嘉靖三十八年(1559年)の進士。兵部主事に任じられ、まもなく禮部に移って翰林待詔を兼ね、穆宗の裕邸に仕え、員外郎に進んだ。穆宗が即位すると旧恩によって尚寶卿に抜擢された。
- のち藩邸の旧臣が相次いで政権を握ったのに、奮庸だけは長らく転任しなかった。大學士の髙拱もまた旧講官であったが、再度起って事に当たるとかなり専恣であったので、奮庸はこれを憎んだ。
- 隆慶六年(1572年)三月、疏を上げて言った。陛下は位に即かれて六年、朝の綱紀は振るい整うかに見えて大権はしだいに移り、仕途は粛清されたかに見えて悪習はもとのままである。百官が首を伸ばして励精の治を見ようとしているのに、陛下の気力と志は初めに及ばなくなってきている。臣は潜邸の旧恩を思い、義として黙っていられない。謹んで五事を条陳して英断を待つ、と。
- 一、聖躬を保つこと。人主の一身は天地・人神の主であり、志が清く気が明らかで精神が完全であってはじめて万機を御せる。神を凝らし志を定め、性をこらえ情を抑え、一朝一夕の娯楽をほしいままにせず、際限のない欲に従わなければ、無窮の福を長く保てる。
- 二、大権を総べること。いま政府が擬議し諸官庁が奉行するものは、詔旨を奉じていないわけではないが、そのうち従うか退けるかを陛下は独断されたことがあるか。国是の改変も人材の任免も、必ずしも忠実な謀と公論から出ているとは限らない。陛下がみずから大権を統べ、諸官庁の建白と閣臣の擬旨をとくに手元に留めてご覧になり、折々に独断を下されれば、臣下はその機微を測れず、政柄が傍らに落ちることもない。
- 三、倹徳を慎むこと。陛下が位を継いで以来、旨を伝えて銀を取ること数十万を下らず、珍奇の宝を求め、鰲山の灯を作り、衣服・器物はことごとく金を鏤め玉を彫らせている。財を生むのははなはだ難しいのに、浪費には際限がない。内帑の空虚を察し、小民の艱苦を思い、無益なものを作らず珍奇の品を貴ばなければ、国用は満ち足り民は生を楽しむ。
- 四、章奏を読むこと。人臣の進言がすべて当を得るはずはないが、陛下が一切放置して読まれないのは、忠良の献納の誠を空しくするだけでなく、権奸が上を覆い塞ぐ勢いがここから成るのを恐れる。章奏に留意して寛やかに受け入れられたい。言が君徳に及べば我が身を省みて修め、朝廷に及べば政を改めよくすれば、言を聴く者は実行を目にし、言を進める者はいよいよ忠を尽くすのを喜ぶ。
- 五、忠直の士を用いること。近年、諫言を進めた者は、あるいは政に勤めよと言い、あるいは費用を節せよと言い、あるいは賢を進め不肖を退けよと言った。いずれも自分の利にならないのにそうしたのであって、風向きをうかがって攻撃をほしいままにし他人の憤りを晴らす者や、権要に迎合して互いに推薦し合い邪党を作る者とは違う。狂愚の罪を許し、逆鱗に触れる誠を嘉して、地位に登らせて士気を作興されれば、正しい諌めが日々聞こえて益は少なくない。
- 疏が上がったが、帝はただ聞き置くとしただけで怒らなかった。
拱の一派との争いと左遷
- ところが拱に与する者は、奮庸が長く転任しないのを不満に思って風刺したのだと言い、こぞってそしった。給事中の涂夢桂はそこで、奮庸は国是を動揺させると弾劾した。
- 折しも給事中の曺大埜もまた拱の十罪を弾劾し、帝はこれを斥けた。給事中の程文はそれに乗じて、拱は忠を尽くして国に報い万世が永く頼りとする人物であるのに、奮庸と大埜はしだいに奸謀をめぐらして元輔を陥れており、罪は誅しきれないと奏した。
- 章はともに吏部に下された。拱はちょうど吏部の事を掌っており、表向きは二臣のために寛大な処置を願ったが、帝は許さず、ついに大埜を乾州判官、奮庸を興國知州に左遷した。
- 夢桂も文もともに拱の門生で、夢桂は奮庸をさんざんにそしり、文は拱を盛んに称賛したうえ、大埜の奏の文言をすべて挙げて拱に代わって弁明したので、士論はこれを非とした。
- 奮庸は左遷から二か月で神宗の即位に会い、山西提學僉事に抜擢され、ふたたび陝西提學副使に移り、病で帰郷を願い出て卒した。
曺大埜――髙拱弾劾のその後
- 曺大埜は巴縣の人。拱を弾劾したのは、実は張居正がそうさせたのである。萬厯年間に累進して右副都御史となり江西を巡撫したが、貪汚を弾劾されて免ぜられた。
史論
- 賛に言う。嘉靖の末年から党派の門戸がしだいに開き、言路にある者はそれぞれ主とするところを持った。だからその時代は、言わないことを憂えるのではなく、言葉が冗長で的を外していること、その心が私心を免れないことを憂えたのである。言が多いほど国是はいよいよ乱れた。隆慶のとき、王治以下の諸人はみな事を論じて台中に名を著した。しかし詹仰庇や李巳が晩節を保てなかったのは、やはり禄を守り地位に固執する念がそうさせたのであろう。