上疏と廷杖
- 鄭履淳は字を叔初といい、刑部尚書の鄭曉の子である。嘉靖四十年(1561年)の進士に挙げられ、刑部主事に任じられ、尚寶丞に移った。
- 隆慶三年(1569年)冬、疏を上げて言った。近年来、万民は生業を失い四方に事が多く、天が鳴り地が震え、災害が重なって至っている。まさに陛下が朝早くから夜遅くまで憂え勤めるべきときである。飢えと寒さが身に迫れば衣食に走りやすい。声を上げる赤子のごとき民こそ聖主の資本である。いま周家の「桑土」(雨に備える)の謀を定め、虞廷の「困窮」を恐れる心を切実にしなければ、上天が海内を警めて動かすところは、かえって他人の資となるだけである。
- いま最も急なのは賢者を用いることである。陛下は位に即かれて三年になるが、かつて一人の大臣を召して問い、一人の講官と面と向かって質し、一人の諫士を賞し容れて、ともに患いに備える策を画されたことがあるか。高ぶって孤立し、乾坤は塞がっている。忠言には檻を折るほどの罰が重く科され、儒臣は道を開き導く功をあげられず、宮闈には耳飾りを外して諫める規がなく、朝廷には同舟の義が失われている。回答は譴責を蒙り、追加の書き付けはどこから出しようもない。内批がまっすぐ出されては封じ返すすべもない。綱紀は因循し、風俗は怠慢し、功罪は調べられず、文案ばかり煩わしく、宦官がひそかに災いの階段となり、善良の徒はしだいに気力を失っている。言が宮府に及べばほしいままに妨げが重なり、私門に阻まれて頑として破れない。万衆は怯えて、みな小人どもが常を侮り、明君と良臣が疎隔していると言っている。天地開闢以来、このようであって長く安泰であった例はない。
- 願わくは英断を奮って大計を決し、小事に惑わされず、深い叡知を広めて君子に任せ、寵臣に惑わされず、美色や珍奇の愛玩に向ける心を移して民の傷を癒やし、昭陽(後宮)の細事に向ける勤めを分けて庶政を和らげ、蛮夷を関門の強敵とみなし、銭穀を民の脂膏とみなし、陸樹聲・石星の類を抜擢し、殷士儋・翁大立らの疏を嘉して容れ、経史の講筵に日々親しんで倦まず、臣民の章奏は担当官と面と向かって可否を相談されたい。そうすれば万機の裁きにしだいに習熟し、人材の邪正はおのずと分かる。変を察して微を謹み、天意を回して泰を開く計は、これに越えるものはない、と。
- 疏が上がると帝は大いに怒り、杖百を加えて刑部の獄に数か月つないだ。刑科の舒化らが言上したので、釈されて民となった。神宗が立つと光祿少卿に起用され、卒した。