皇后の別宮移御を諫める
- 駱問禮は諸暨の人。嘉靖末の進士。南京刑科給事中を経た。
- 隆慶三年(1569年)、陳皇后が別宮に移されると、問禮は同僚の張應治らとともに上言し、皇后は中闈に正位しておられるのだから、病があるからといって宮を移すべきではない、速やかに坤寧宮にお戻しになり、後世に「礼を変えたのは陛下から始まる」と言わせないでいただきたい、と述べたが、返答はなかった。
- 給事中の張齊が徐階を弾劾して廷臣に排斥され、獄に下されて籍を削られたとき、問禮ひとり、齊の贓罪は疑わしく、大臣を糾弾したことをもってその罪を事実と認めるべきではないと述べた。
- 張居正が大閲を請うたとき、問禮はそれは急務でないとし、帝が日々万機に親しんで奏章を詳しく読まれるよう請うた。
- まもなく誠意伯の劉世延と福建巡撫の涂澤民の不適任を弾劾したが、帝はともに留任させた。
面奏十事の上奏と左遷
- 帝ははじめ言官の請いを容れ、諸政務をすべて便殿で面奏させようとした。問禮はそこで面奏の事宜を条陳した。
- 一、陛下がみずから万機を統べるにあたっては、衆人の言を酌み取って自説に固執せず、可否も与奪もみな天道にかなうようにすれば、独断の美があって独りよがりの失がない。
- 二、陛下は日ごろ便殿にあって侍従の官を常に左右に置き、日が暮れなければ宮闈に入られないようにすれば、涵養と薫陶に益が多い。
- 三、内閣は政事の根本であるから、諸官庁の者も参用して翰林に限らないようにすれば、義理を講じ明らかにする者も、政令に通じて事を処する者も、それぞれ適材を得る。
- 四、詔旨は必ず六科を経てはじめて諸官庁が奉行できるようにし、不当なものがあれば封じ返して執奏するのを許す。六科が封駁せず諸官庁が検察を怠った場合は、御史が糾弾するのを許す。
- 五、このほど詔書が二度下ってみな直言を許したが、採納されたのは言官と一、二の大臣のほかは、すべて担当官庁に回されただけである。さらに言路を広げ、臣民の章奏はその人ではなくその言によって取り上げ、庶人でも力を尽くせるようにされたい。
- 六、陛下が朝に臨んで事を決するとき、左右に仕えて旨を伝え奏章を受け取るような役は文武の侍従を用い、中官を関与させなければ、隙をうかがい権を盗む芽が生じない。
- 七、士風が危うく、少し意見が違うとすぐに排斥し陥れる。今後は国事を議するにあたって是非だけを論じ、好悪に従わないようにする。衆人の言も必ず正しいとは限らず、一人の言も必ず誤りとは限らない。そうすれば公論は日々明らかになり、士気は振るう。
- 八、政令が出たら必ず実行させるべきである。いま担当官庁が回答して許可を得た事でも実施が見られず、因循と怠慢が常となっている。陛下が上で奮い立たれ、諸臣に勅して下で励ませ、頽廃と怠惰の風を挽回されたい。
- 九、面奏の儀はわずらわしい形式を省いて実用を求め、諸臣が参内して奏し、退いて職務を処理し、どちらも妨げられないようにすれば、上下の交わりは長続きする。
- 十、修撰・編修・検討の諸臣を交代で宿直させ、乗輿の近くに侍らせて一切の言動を簡に執って書き記させる。その耳目の及ばぬ分は、諸官庁から月ごとまたは季ごとに報告させ、事に随って編纂させて勧戒に垂れられたい。
- 疏が奏せられたが帝は不快で、宦官がさらに宮中から陥れたので、楚雄知事に左遷された。
- 翌年、吏部が雑職の官で昇進すべき者を挙げ、問禮と御史の楊松がその中にあったが、帝は「この二人がどうしてすぐに昇進できようか。三年後に議せ」と言った。萬厯の初めにたびたび移って湖廣副使となり、卒した。
楊松――黄雄の詐称を弾劾する
- 楊松は河南衛の人。御史を歴任し、皇城を巡視した。
- 尚膳少監の黄雄が子銭(利息)を取り立てて民と騒ぎになり、兵馬司が捕らえて松のもとへ送った。事がまだ決しないうちに、内監が校尉に雄を急ぎ宿直に入らせようとし、駕帖があると偽った。松が調べても無かったので、雄が詔旨を詐称したと弾劾した。
- 帝は兵馬司の官を黜け、松のほうは三階級落として山西布政司照磨に左遷した。神宗が立つと廬州推官に抜擢され、山西副使で終わった。
張應治――言路での抗論
- 張應治は秀水の人。言路にあって抗議の疏が多く、称すべきものがあった。髙拱に憎まれて外に出て九江知府となり、山東副使で終わった。