明史卷二百十五 列傳第一百三 王治

篇首の立伝者一覧

  • 王治
  • 歐陽一敬(胡應嘉を附す)
  • 周𢎞祖(岑用賓・鄧洪震を附す)
  • 詹仰庇
  • 駱問禮(楊松・張應治を附す)
  • 鄭履淳
  • 陳吾徳(李巳・胡涍を附す)
  • 汪文輝
  • 劉奮庸(曺大埜を附す)

出自と給事中としての建言

  • 王治は字を本道といい、忻州の人。嘉靖三十二年(1553年)の進士。行人に任じられ、吏科給事中に移った。
  • 寇がたびたび辺境を侵していたが、辺臣の多くは隠して上奏せず、小さな勝ちがあると文臣がすぐ軍功を横取りした。治は、陣に臨んで斬獲した分は将士の功だけを記録し、文臣や鎮帥で自ら戦わなかった者には賜与を与えるにとどめるよう請い、従われた。
  • ふたたび禮科左給事中に移った。隆慶元年(1567年)、御史の玉好問とともに内府の諸監局の年間支出を調べた。中官の崔敏がこれをやめさせるよう請い、給事中の張憲臣に弾劾された。詔書に載る分は嘉靖四十一年以降を治らに詳しく調べさせ、載らない分は取りやめるとの旨が下った。治らは力争したが許されなかった。
  • 調査が終わると、中官の趙廷玉・馬尹の着服の罪を弾劾し、詔で司禮監に下して取り調べさせた。

四事の上奏

  • まもなく疏を上げて四事を陳べた。
  • 一つ、宗廟の礼を定めて聖なる孝を篤くすること。獻皇は天子の父として貴かったとはいえ、いまだ南面して天下に臨んだことはなく、武宗の叔父ではあるが、かつては北面して武宗に仕えた。それをいま祖宗の諸帝と並べ、武宗の右に位を設けているのは、古典に照らして結局しっくりこない。臣は、獻皇を太廟に祔せば代替わりの遷祀を免れないが、世廟で専ら祀れば万代改まらないと考える。廷臣に勅して広く議させ、もっとも当を得たところを求められたい。
  • 一つ、燕居の礼を謹んで教化の源を澄ますこと。人主が奥深く宮中にいると、左右の佞人がさまざまに隙をうかがい、あるいは宴飲や音曲で、あるいは遊戯や騎射で誘う。近くは精神を損ねて病の因となり、久しくは政事を妨げて危乱の因となる。近ごろ人の口がやかましく、陛下の平生の挙措に諒闇(喪中)にふさわしくないものがあると言う。臣はひそかに陛下のために憂える。
  • 残る二つは、朝儀と経筵に勤め、輔弼の臣に親しむことを請うたものである。
  • 疏は上がったが、聞き置くとの返答であった。

吏科都給事中としての弾劾

  • 吏科都給事中に進み、薊遼總督都御史の劉燾と南京督儲都御史の曾于拱の不適任を弾劾し、于拱は罷免された。
  • 山西と薊鎮がともに寇に侵されたとき、治は兵部尚書の郭乾と侍郎の遲鳳翔を罪すべきだとし、同僚の歐陽一敬らとともに弾劾した。詔で乾は罷免され、鳳翔は三階級落として職務に当たらされた。
  • 部議が光祿少卿の馬從謙に恤典を与えることを議したが帝は許さなかった。治が疏で争ったところ、帝は從謙の犯した罪は子が父を罵る律に当たるとして、ついに許さなかった。
  • 治はまた何瑭への追諡と夏言の罪の雪冤を請い、あわせて大理卿の朱廷立と刑部侍郎の詹瀚がともに夏言・曾銑の獄をでっち上げたのだから、その官を追奪すべきだと述べ、いずれも許可された。

南海子の諫止と晩年

  • 翌年、左右に南海子の景勝を言う者があり、帝が行幸しようとした。治は同僚を率いて諫め、大學士の徐階、尚書の楊博、御史の郝杰らもそろって止めたが、いずれも聞き入れられなかった。着いてみると荒れた草地の湿地で、帝はたいそう後悔した。
  • 治はまもなく太僕少卿に抜擢され、大理に移り、大僕卿に進んだ。喪で帰郷し、卒した。