明史卷二百十一 列傳第九十九 沈希儀

字は唐佐、貴縣の人である沈希儀。世職を継いで奉議衛指揮使となり、機敏で胆勇があり知略に長けた。広西で永安・義寧・荔浦の賊を次々と破り、田州の岑猛討伐では離間の計を献じて功第一とされた。柳慶を鎮しては那地の狼兵を調え、猺の商人や婦人を諜者として賊情を握り、神出鬼没の用兵で首魁の韋扶諫を捕らえ、柳城周囲数百里から略奪を絶った。狼兵と猺獞の違いは土官と流官の統制の差にあるとして、猺獞を土官に分属させる策を上書したが用いられなかった。のち海南五指山の黎の乱を平定し、貴州総兵官に至った。

年表(5件)

出自と広西での初期の戦い

  • 沈希儀は字を唐佐といい、貴縣の人。世職を継いで奉議衛指揮使となった。機敏で胆勇があり、知略は人に抜きん出ていた。
  • 正徳十二年(1517年)、永安征伐に動員され、数百人で陳村砦を襲った。馬が泥にはまったが跳ね上がり、続けて三人の首領を討ち取ってその残りの衆を破った。署都指揮僉事に進んだ。
  • 義寧の賊が臨桂を侵して巣に戻るのを沈希儀が追った。巣には二つの隘路があり、賊は一方に伏兵を置き、手なずけた猺人を使って官兵を誘い込ませようとした。沈希儀はその詐りを見抜き、急ぎ別の隘路から直接賊の巣に至ったので、賊はあわてて救援に戻り、大破された。
  • 荔浦の賊八千が江を渡って東を掠奪したとき、沈希儀は五百人を率いて白面砦に駐屯し、帰りを待った。砦は蛟龍灘・滑石灘の両灘からそれぞれ数里の距離にあった。沈希儀は、滑石灘は狭いので敵が多くても押さえられるが、蛟龍灘は広く、渡られては手が出せないと考え、滑石へ誘い込もうとした。そこで蛟龍灘に旗百本を立て、弱い兵に守らせ、柴を燃やして疑わせた。賊は果たして滑石へ向かった。
  • 沈希儀はあらかじめ小舟に精鋭を乗せて葦の中に伏せておき、賊が半ば渡ったところで急流に乗じて突き、両岸の軍も喚声を上げて前進したので、賊の多くが水に落ちて死んだ。掠奪された物を収めて還った。
  • 副総兵の張祐に従って臨桂・灌陽・古田の賊を続けて破り、署都指揮同知に進んで都司の事を掌った。

田州の岑猛討伐

  • 嘉靖五年(1526年)、総督の姚鏌が田州の岑猛を討とうとしたとき、沈希儀の計を用い、岑猛の妻の父である帰順の土酋の岑璋に離間を仕掛けて岑猛を図らせ、兵を五哨に分けて進んだ。
  • 沈希儀は中哨を率いて工堯に当たった。工堯は賊の要地で、衆を集めて守っていた。沈希儀は夜のうちに三百人を山伝いに回らせて背後に出させ、夜明けに合戦したときにはその軍がすでに山頂に旗を立てていたので、賊は大いに潰えた。岑猛は帰順へ走って岑璋に捕らえられ、田州は平定された。
  • 沈希儀の功が第一であったが、姚鏌がこれを抑え、賜与を受けたにとどまった。
  • 姚鏌が流官を置くことを議したとき、沈希儀は「思恩は流官のせいで乱れ、いまなお収まっていない。田州も同じことになり、二つの賊が連合して起つ」と述べたが、姚鏌は従わず、沈希儀を右參將として思田を分守させた。
  • 沈希儀が郷里へ帰って支度をしたいと願い、參將の張經が代わって守ることになったが、わずか一か月で田州は再び叛き、姚鏌は罷めて帰り、王守仁が代わって沈希儀の計を多く用い、思田は再び平定された。

柳慶の統治と諜報

  • 右江の柳慶參將に転じ、柳州に駐屯した。象州・武宣・融縣の猺が叛いたのを討ち破り、病と称して帰郷した。まもなく旧任に戻った。
  • 柳は万山の中にあり、城外五里はすでに賊の巣で、軍民は耕す土地もなく、官軍は日ごろ疲れて戦に堪えず、しかも賊の耳目が行き渡っていて官府の奥まった所の動静まで知られていた。
  • 沈希儀は、賊を大きく破るには狼兵でなければならないと考え、制府に請うて那地の狼兵二千を調えて戍らせたので、兵はやや振るった。
  • ついで猺と通じて商いをする者数十人を捕らえ、その罪を握ったうえで手厚く遇し、賊を探らせた。こうして賊の動静も沈希儀にすべて知られるようになった。
  • 沈希儀は出兵のたびに、身近な側近にさえ知らせず、時刻が来ると号を鳴らして諸軍を集め、一人に旗を持たせて先導させたので、どこへ行くのか分からなかった。軍を止めて伏兵を置くと必ず賊が現れ、伏兵に遭って逃げるところを官軍が撃ち、思いどおりにならないことがなかった。
  • 賊が他所を侵せば官軍が先回りしており、遠い村や辺鄙な集落で官軍が来られまいと踏んで襲えば、そこにも官軍がいた。賊は驚いて神のようだと思った。
  • 沈希儀は賊の巣で得た婦女や家畜のうち、隣の巣の者であればすべて返し、ひそかに賊を助けた者だけを罰したので、諸猺はみな畏れ服し、賊に味方する者がなくなった。

猺婦を通じた諜報と夜襲

  • 沈希儀は着任当初、手なずけた猺が城中に出入りするのを禁じず、その中の抜け目ない者に厚く賞を与えて諜者とした。のちには猺の婦人を入れて自分の妻に会わせ、酒食や絹布を与え、その夫が常に賊情を告げる者にはひそかに厚く報いた。猺の婦人たちは賞を得ようと争って夫に賊情を報告させ、あるいは自ら府に来て告げたので、賊はいよいよ形を隠せなくなった。
  • 沈希儀は風雨で暗い夜になると賊の宿営地を探らせ、人を分けて銃を持たせ、□(底本欠字)小屋のそばに伏せさせた。夜半に銃が鳴ると賊は大いに驚いて「老沈が来た」と言い、みな妻子を連れて這うようにして山へ登り、子は泣き女は叫び、あるいは凍え崖の石にぶつかって死ぬ者もあり、盗賊になったのは失策だと悔やんで争った。
  • 夜明けに山を下りても人の声一つなく、他の巣も同様であった。衆はいっそう驚き□(底本欠字)、人を城に入れて探らせると、沈希儀はもとどおり城中にいて出ていなかった。賊は肝を潰し、多くが手なずけられた猺に鞍替えした。

韋扶諫の捕縛

  • 韋扶諫という者は馬平の猺の首魁で、たびたび捕らえようとしても捕まらなかった。韋扶諫が隣の賊の二層の巣に逃げたとの報があり、沈希儀は□(底本欠字)兵を率いて討ったが、彼はさらに三層の賊とともに他所を襲いに行っていた。
  • 沈希儀は三層の巣の妻子をことごとく捕虜にして帰った。沈希儀は賊の妻子を捕らえるといつも狼兵に与えていたが、このときだけは空き家に閉じ込めて食事を与え、手なずけた猺を遣わしてその夫たちに「韋扶諫が手に入れば返す」と告げさせた。
  • 諸猺はみな聞いて謁見に来た。沈希儀が室に入れて見せると妻子は無事であった。そこで彼らは共に韋扶諫を巣から誘い出し、縛って献じ、妻子と引き換えに返してもらった。
  • 沈希儀は韋扶諫の目をえぐって手足を切り離し、城門に懸けた。諸猺は沈希儀の威信に服し、いよいよ盗賊を働かなくなり、以後、柳城の周囲数百里で略奪を敢行する者がいなくなった。

狼兵と猺獞の統治論

  • 沈希儀はかつて朝廷に上書して述べた。狼兵もまた猺・獞にすぎない。猺・獞は所在で賊となるのに、狼兵は死んでも悪事を働かない。これは狼兵が従順で猺・獞が逆らうということではない。
  • 狼兵は土官に属し、猺・獞は流官に属する。土官は令が厳しく狼兵を制するに足りるが、流官は勢いが軽く猺・獞を制せないのだ。
  • もし猺・獞を分割して近隣の土官に分属させれば、土官は代々富貴で他念を抱かず、国家の力で土官を制し、土官の力で猺・獞を制することになり、みな狼兵となって両廣は代々患いがなくなる、と。当時は用いられなかった。

思恩の岑金の変

  • 嘉靖十六年(1537年)に思恩の岑金の変が起こった。
  • はじめ思恩の土官の岑濬が誅されたのち流官に改め、その酋長二人、韋貴と徐五を土巡檢としてそれぞれ一万余の兵を分掌させた。夷民は漢の法を喜ばず、たびたび叛いた。
  • 鎮安に金という名の男がおり、自ら岑濬の子だと言った。鎮安の土官が□(底本欠字)その旧部の酋長を召し、金を出して盟を結ばせ、「これがお前たちの小主だ」と言った。諸酋が並び拝み、金を擁して帰り、兵五千を集めて城を攻めて旧地を回復しようとし、遠近が騒然となった。
  • 岑濬が誅されたとき、その酋の楊留という者は行き場を失い、党千余人を率いて賓州へ行き、応募して打手となっていた。沈希儀が賓州にいたとき、楊留が入って「小主人に会いに行きたい」と言った。
  • 沈希儀はもとより金の件を憂えていたが、楊留の言を聞いていっそう驚き、それでいて楊留に穏やかに「それは岑濬の第九子だ。私が以前田州を征したとき確かに聞いた」と言い、ついで独り言のように「岑氏は再興するのか」と言った。楊留を深く動かそうとしたのである。楊留は果たして喜んだ。
  • ついで楊留を密室に呼び、「私に重い贈り物をよこせ。金のために官職を回復してやろう」と言い、いったん退がらせてまた呼び入れ、「韋貴と徐五は今、思恩の兵を分けて率いている。必ず金を仇と狙うから、よく守ってやれ」と言った。楊留はますます信じた。
  • そこで金は五千人を従え、楊留の手引きで会いに来た。門番が駆けて報告し、入れないよう請うたが、沈希儀は「金は土官の子で賊ではない。なぜ入れないのか」と罵り、招き入れて厚くもてなした。さらに兵備副使のもとへ連れて行き、計略で五千人を少しずつ散らし、ついに金を縛った。楊留も悔やんで死んだ。思恩は再び静まった。

柳慶での治績と諸方面の従軍

  • ついで総督の張經に従って断藤峽・弩灘の賊を大破し、賜与を受けて帰った。
  • 沈希儀が柳慶を鎮すること久しく、渠魁や古参のしたたか者はほとんど捕らえ誅した。前後して巣を襲って斬首は累計五千余級に上ったが、いちいち功を奏さなかったので叙されないものが多かった。
  • 嘉靖十九年(1540年)、再び病と称して辞した。柳の人は彼を山雲の祠に合わせて祀った。
  • まもなく四川左參將に起用され、敘・瀘および貴州以西の諸処を分守した。その冬、署都督僉事に抜擢されて総兵官として貴州を鎮したが、また病と称して帰った。
  • 塞上に警報が多く、天下の名将を京師に召したとき、沈希儀も召しの中にあった。沈希儀は柳慶を鎮していたころ戦うたびに先陣を切り、身にたびたび傷を負っていたので、陰雨のたびに痛みが激しく、そのためたびたび病と称していた。京に至ってもやはり病を理由に辞した。
  • 帝は責任逃れを疑い、都督の官を剥奪して兵部に出頭させ、任用を待たせた。翁萬達がその才を推薦し、ちょうど江淮に盗賊が多く督捕総兵官を置く議があったので、沈希儀を署都督僉事に復して赴かせた。

海南の黎の平定と晩年

  • 嘉靖二十六年(1547年)、廣東副総兵となった。あわせて、今後は川・廣・雲・貴から来た将領を京営および西北辺に推挙してはならないと定め、法とした。
  • 総督の張岳に従って賀縣の賊の倪仲亮らを大破し、実授を与えられ、なお銀幣を賜った。
  • 瓊州五指山の熟黎はもともと法を畏れて徭役と賦税に従っていたが、知州の邵濬が虐げて取り立てたため、その酋の那燕が崖州・感恩・昌化の諸黎と結んで乱を起こした。総督の歐陽必進は萬州・陵水の黎も併せて討とうと議し、兵を五道に分けた。
  • 沈希儀はたまたま病で最後に到着し、歐陽必進に「萬州・陵水の黎には悪に与した実がない。なぜ併せて誅して敵を増やすのか。三道にとどめるがよい」と言い、歐陽必進はこれに従った。
  • 沈希儀は参将の武鸞・俞大猷らとともに五指山の下へ直進し、那燕およびその一党五千四百余を斬り、捕虜はその五分の一、招降は三千七百人であった。捷報により都督同知に進み、貴州総兵官に改まった。
  • さらに張岳に従って銅仁の叛いた苗の龍許保・吳黑苗を平らげたが、また病により帰郷した。
  • 倭が海上を侵すと、川・廣の兵を督して討伐に赴くよう命じられたが功なく、周如斗に弾劾されて罷免された。
  • 沈希儀は人となりが率直で、日ごろは冗談を言って笑い、肺腑まで見通せるようであったが、敵に臨んで応変し奇策を出すと誰も推し量れなかった。とりわけ士卒をよく慰撫し、かつて重い病にかかったとき、兵卒の多くが自ら身を傷つけて神に祈り、最後の一人は矢で喉を貫くほどであった。士心を得ることこのようであった。