出自と延綏での戦功
- 梁震は新野の人。榆林衛指揮使を襲った。嘉靖七年(1528年)、署都指揮僉事に進み、寧夏の興武営で協守し、まもなく延綏遊撃将軍となった。
- 廉直で勇敢、兵書を好んで読み、士を訓練するのが巧みで、強弓を引いて命中させ、たびたび先陣を切った。延綏副総兵に抜擢された。
- 総兵官の王效とともに鎮遠関で敵を退け、都督僉事に進んだ。
- 濟農(ジノン)と俺答(諳達)が延綏を侵すと、梁震は黄甫川で破った。ついで響水・波羅を侵したときは、参将の任傑が大いに破った。濟農がさらに十万騎で侵入すると、梁震は乾溝で大破し、首功百余を挙げた。前後して褒賞を受け、俸一等を加えられた。
- 乾溝は全長三十里で敵の進路に当たっていたので、梁震はこれを深く広く掘り下げ、その上に土塀を築いた。以来、敵は容易に侵さなくなった。
- 嘉靖十四年(1535年)、都督同知に進み、陝西総兵官となった。まもなく黄甫川の功を論じて右都督に進んだ。
大同の鎮圧と戦功
- 翌年、大同に移鎮した。大同では乱兵が続けて巡撫の張文錦と総兵官の李瑾を殺し、李瑾を継いだ魯綱は威が振るわず、兵はますます驕って文武の大吏も抑えられず、廷議はこれを憂えて梁震を移したのである。
- 梁震は日ごろ壮健な者五百人を養っており、着任すると軍中に令を下して規律を申し渡した。鎮の兵は日ごろから梁震を恐れていたので、これで服従した。
- 敵が侵入すると牛心山で破り、百余級を斬った。敵は憤って辺の近くに駐留し隙をうかがった。ちょうど車駕が山陵を祀る時期で、梁震は将士を諸方面に伏せ、敵が果たして侵入すると宣寧灣で大破し、さらに紅崖兒で破って斬獲が非常に多かった。左都督に進み、一子に百戸の蔭を賜った。
- 梁震の父の棟はかつて陣没していたので、梁震は子への蔭を辞退して父の祭葬を乞い、帝は嘉して許した。
- 毛伯温が督師となり、梁震とともに鎮辺の諸堡を修築し、数か月で完成した。
- 没後、太子太保を追贈され、家に銀と幣を賜り、さらに太保を加贈され、武壯と諡された。
- 梁震には機略があり、号令は明晰で、前後百十戦して少しも挫けたことがなかった。しばしば壮健な者を率いて塞を出て敵営を襲ったので、事端を開くと批判する者もあった。梁震は「事端を開くというのは、敵が辺を騒がせていないのにこちらから挑んで功を求めることを言う。いま敵はたびたび深く侵入しているのだ。一度打ち懲らそうと思わないのか」と言った。
- 梁震が没すると、その壮健な者たちは行き場を失った。守臣が上申して部隊に編入させ、辺将はなおその力をかなり得た。
祝雄
- 梁震の後任は遼東の祝雄。世襲の蔭により身を起こし、都督僉事を歴任した。山西副総兵から大同に移って鎮したが、弾劾されて職を解かれ、起用されて薊州を鎮した。
- 士をよく慰撫し軍の統率は厳格で、敵が塞に入れば子弟を率いて兵卒に先んじ、子が少しでも退けば法を曲げずに処した。世宗はその名を御屏に書きつけた。
- 将たること三十年、布の袍と氈の笠で兵卒と変わらない身なりであった。没したとき残された財は納棺の道具を賄うのがやっとであった。薊の人は祠を建てて祀った。