明史卷二百十 列傳第九十八 張翀

嚴嵩弾劾の三大政論

  • 張翀は字を子儀といい、栁州の人。嘉靖三十二年(1553年)の進士。刑部主事に任じられた。
  • 嚴嵩父子が政を乱すのを憎み、抗議の上章をして弾劾した。
  • 大学士の嚴嵩は貴きこと人臣を極め、富は天下一。子は侍郎、孫は錦衣・中書、賓客は朝班に満ち、姻戚はみな高位にある。犬馬でさえ主に報いることを知るのに、嚴嵩はそうではない、と説き起こし、辺防・財賦・人材の三大政について論じた。
  • 辺防について。国家が藩屏として頼るのは辺鎮である。嚴嵩の輔政以来、文武の将吏はみな賄賂で進む。初めは名実を調べず、つてさえ通じれば任じ、のちには功次を問わず、贈り物を勤めさえすれば飛び越えて昇進させる。辺の修築や築堡に名を借り、軍を覆した者が子に蔭を得、みだりに殺した者が官を移る。公然と欺きをほしいままにし、互いに売り買いして、祖宗二百年の辺防の計はすべて廃れ壊れた。
  • 財賦について。戸部が毎年出す辺の糧餉はもと軍を養うためのものなのに、嚴嵩の輔政以来、朝に度支の門を出て夕には奸臣の府に入る。辺に送られるのが四なら嚴嵩に贈られるのが六である。長安街を通るたび、嚴嵩の門下にいるのは辺鎮からの使者ばかりで、父に会う前にまず子に贈り、子に会う前にまず家人に贈る。家人の嚴年の富はすでに数十万を超えており、嚴嵩の家は推して知るべし。私蔵があふれ、その半ばは軍儲であり、辺卒は凍え飢えて朝夕も保てない。祖宗二百年が養った軍はすべて弱り果てた。
  • 人材について。辺防が崩れ辺儲が空でも、人材が陛下の用に足りればまだ憂えるに及ばない。だが嚴嵩の輔政以来、名器を軽んじ私腹を肥やし、世蕃は狡猾な性質で父の虎狼の勢いを恃み、権を招いて利を貪り、恥知らずの徒が絡繹と走り回り、風潮となって狂気のようである。祖宗二百年が培った人材はすべて損なわれた。
  • そのうえで、嚴嵩は険しさで人を傾け、詐りで世を惑わし、弁舌で政を乱し、才で奸を成す。己に付く者は膝に載せ、己と異なる者は淵に落とし、天下の口を封じて言わせず、その悪は日ごとに募る。これが忠義の士が腕を握って憤り、深く長い憂いを抱く理由だ、と述べた。
  • 陛下が斥け罰して衆の憤りを晴らされれば、辺の将士は戦わずとも気が倍し、諸官庁は命じずとも政が改まる、と結んだ。

流罪と南贛巡撫

  • 上奏はそのまま詔獄に下されて取り調べられ、都勻へ流された。
  • 穆宗が即位すると吏部主事に召され、再び遷って大理少卿となった。隆慶二年(1568年)春、右僉都御史として南贛を巡撫した。
  • 管内の萬羊山は湖廣・福建・廣東の境にまたがり、もとから盗賊の巣で、各地の商民がその間で藍を栽培していた。このとき盗賊が出て掠奪したので、張翀は守備の董龍を遣わして討たせた。董龍が山狩りを触れ回ったため藍の栽培者たちが大いに恐れ、盗賊がこれをあおって千人余りが集まった。兵部が二鎮の撫臣に招撫と討伐のいずれによるか協議させ、久しくしてようやく収まった。
  • 南雄の大盗の黄朝祖が諸縣を荒らし回り湖廣にまで及んで勢いが盛んになったが、張翀が討ってこれを捕らえた。
  • 湖廣巡撫に移り、召されて大理卿となり、兵部右侍郎に進んだが、親の養護を理由に帰郷した。
  • 萬曆初年に旧官に起用されて漕運を督し、召されて刑部右侍郎となったが受けず、続けて辞職を願い、家で没した。天啟初年(1621年)、兵部尚書を追贈され、忠簡と諡された。