明史卷二百十 列傳第九十八 趙錦

字は元樸、餘姚の人である趙錦。嘉靖二十三年の進士で、江陰知縣から南京御史となり、鎮江への総兵官設置の中止や淮・兖の民の租徭軽減を建言した。嘉靖三十二年元旦の日食を権奸の応と見て、内閣が宰相の実を備える弊を説き、嚴嵩の柔佞と請託・賄賂の横行を論じて弾劾したため、天を欺き君を謗るとされて逮捕され、杖四十を受けて庶民に落とされ、十五年を郷里で過ごした。穆宗の即位で復官し、貴州巡撫として叛苗を破り、大理卿・工部侍郎を経て南京の刑部・禮部・吏部尚書を歴任した。張居正の急政を批判して罷められたが、その籍没に際しては寛大な処置を求めた。萬曆十九年、召命に応じる途上の蘇州で没し、太子太保を贈られ端肅と諡された。王守仁の学を篤く信じ、その孔廟従祀は錦の尽力による。

年表(7件)

知縣・御史としての建言

  • 趙錦は字を元樸といい、餘姚の人。嘉靖二十三年(1544年)の進士。江陰知縣に任じられ、召されて南京御史となった。
  • 長江の沿岸に警報があり、鎮江に総兵官を置く議が出たとき、趙錦は小規模な盗賊の掠奪に大軍を煩わすには及ばないと述べ、帝はこれを取りやめた。
  • ついで、淮・兖の数百里で民の多くが流亡して雇われ働きをしているとして、租税と徭役の軽減、廷臣を選んで地方官を監督させ民を慰撫することを求め、裁可された。
  • 軍事費のために民が粟や馬を献じて錦衣の官を得ることについては、強く不可を論じた。まもなく雲南で軍籍の整理にあたった。

嚴嵩弾劾の疏

  • 嘉靖三十二年(1553年)元旦の日食を、趙錦は権奸が政を乱していることへの応と見て、急ぎ上疏して嚴嵩の罪を弾劾した。
  • 元旦の日食は尋常でない異変であり、山東・徐州・淮の一帯は連年の大水、各地で地震が頻発している。災いは理由なく生じるものではない、と説き起こした。
  • 太祖高皇帝が丞相を廃して権を諸司に分けたのは後世を慮った深謀であるのに、いまの内閣は宰相の名がなくてその実を備えており、高皇帝の本意ではない。先に夏言が貪暴の資質でその位をほしいままにし、いままた大学士の嚴嵩が佞奸の雄としてこれを継ぎ、寵を恃んで威を張り、権を盗み欲をほしいままにし、事の大小を問わず独断しない事がなく、逆らう者は必ず禍に陥れるので、諸官庁は顔色をうかがって息をひそめている、と論じた。
  • 天下の事は朝廷より先に政府(内閣)に聞こえ、事を申し上げる官が嚴嵩の門に列をなして待ち、請託の賄賂が邸に集まる。人事の任免も兵部の用捨も、その意向を承けないものはない。辺臣は失態を犯すたびに軍資を削って賄賂に充て、嚴嵩に納めれば功がなくとも賞を受け、罪があっても誅を免れる。宗室・勲戚の襲封、文武大臣の贈官・諡号も、その遅速と可否は賄賂の多寡ひとつで決まる。寵を求めて出世を図る徒が自らを卑しめて不相応な呼び名を用い、廉恥は地を払っていて、口にするに忍びないほどだ、と述べた。
  • 陛下は聡明で綱紀を独り運用され、可否の判断は宸断によるとお考えだろうが、上申の案は諸司にあり、閣臣は擬旨して裁可を仰ぐだけで、諸司の奏稿はみな嚴嵩の指示を承けている。陛下がどうしてそれを知りえようか、と論じた。
  • 夏言が誅されて嚴嵩が悪を行い続けられるのは、夏言は剛暴で粗略ゆえ悪が見えやすく、嚴嵩は柔佞で計略が深いゆえ悪が知りにくいからだ、とした。
  • 嚴嵩は機をうかがい迎合する巧みさが忠勤に見え、へつらいの態度が恭順に見える。私人を植えて要地に配し、諸臣の動きを察知して先手を打つので露見が少ない。左右の側近に厚く賄賂を贈るので陛下の意向をあらかじめ知ることができ、旨に適う案が多い。あるときは聖意の向かうところをうかがって便乗して私を成し、あるときは事の勢いに乗じてあおり毒をほしいままにする。陛下がお考えになればその発端は朝廷から出たように見え、天下が指弾すればその事は政府から出ていないように見える。幸いに聖心が見抜かれれば諸司が嚴嵩の代わりに罰を受け、不幸に後世に伝われば陛下が嚴嵩の代わりに咎を負われる、と述べた。
  • 嚴嵩が輔政して以来、恩讐に報いることと財貨を集めることばかりで、群臣はひそかに陥れられるのを恐れて忠言を直言できず、四方は貪欲の風に染まって民間は日ごとに困窮している。
  • 庚戌の変(嘉靖二十九年、1550年)以来、外敵が横行し、陛下は天下の武勇を募って兵を充て、天下の財力を尽くして糧餉に充て、天下の遺才を捜して将に任じ、破格の賞を行い測り知れぬ威を示して内外に示された。それでも辺境の臣で陛下の憂いを緩めた者はいない。権臣が私を行い、将吏がその風になびいて搾取を務めとし猟官を能とし、朝廷では用いられる者が賢でなく賢者が用いられず、賞は功に当たらず罰は罪に当たらないからだ、とした。
  • 陛下が太平を致そうとしても群臣は左右で徳を承けるに足らず、戎寇を防ごうとしても将士は辺疆で侮りを防ぐに足らない。財用はすでに尽き外患は収まる気配がなく、民の困窮は極まり内乱の恐れさえある。陛下が至聖の身で三十二年も憂勤しておられるのに天下の勢いがこれほど危ういのは、嚴嵩の奸邪でなくて何が招いたのか、と論じた。
  • そのうえで、上天の示す象を見、祖宗の立法の微意を察し、権柄を移してはならぬこと、紀綱を乱してはならぬことを思い、直ちに嚴嵩を斥けて天変に応じられよ。そうすれば朝廷は清明となり法紀は引き締まり、寇戎がいかに横暴でも平定は難しくない、と結んだ。

逮捕と十五年の廃棄

  • そのころ楊繼盛が嚴嵩を弾劾して重い処分を受け、帝は怒りを蓄えて言者を待ち構えていた。周冕が冒功の件を争ってやはり投獄され、そこへ趙錦の疏が届いた。
  • 帝は激怒し、その上に手ずから「趙錦は天を欺き君を謗る」と批し、使者を遣わして逮捕させ、あらためて嚴嵩を手厚く慰めた。趙錦は万里の道を檻車で送られ、たびたび檻車ごと転落して死にかけること数度に及んだ。
  • 到着後、詔獄に下されて拷問を受け、四十の杖を加えられて庶民に落とされた。父の塤は当時廣西參議であったが、やはり自ら弾劾を願い出て罷めた。趙錦は十五年を郷里で過ごした。

穆宗・神宗朝の歴任

  • 穆宗が即位すると旧官に起用され、太常少卿に抜擢されたが、着任前に光禄卿に進んだ。江陰が毎年鱭(えつ)の子を一万斤献上していたのを、上奏してその量を減らさせた。
  • 隆慶元年(1567年)、右副都御史として貴州巡撫となり、叛いた苗の龍得鮓らを破って捕らえた。宣慰の安氏は日ごろ驕慢であったが、趙錦を畏れて命に従った。
  • 入って大理卿となり、工部左侍郎・右侍郎を歴任し、部の事務を代行して争論することもあった。
  • 萬曆二年(1574年)、南京右都御史に遷り、刑部尚書に改まった。張居正が喪に遭った際、南京の大臣が留任を請う疏を議したが、趙錦と工部尚書の費三晹が不可としてやめになった。禮部、さらに吏部に移ったが、いずれも南京である。
  • 趙錦は張居正の性急な政治を批判していたので、それが張居正の耳に入り、給事中の費尚伊に「趙錦は講学と談禅にふけって朝政をみだりに議している」と弾劾させた。趙錦は辞職して去った。

張居正の籍没に寛大を求める

  • 張居正が没すると給事中・御史がそろって推挙し、旧官に起用された。萬曆十一年(1583年)、召されて左都御史に任じられた。
  • ちょうど張居正の資産が籍没されようとしており、趙錦は上言した。世宗が嚴嵩の家を籍没したとき禍は江西の諸府に及んだ。張居正の私蔵は嚴氏には及ぶまいが、もし捜索を加えれば三楚に江西の十倍の害を及ぼす。しかも張居正は権を専らにしたとはいえ異心があったわけではなく、幼帝を戴いて朝夕勤労し内外を安寧に保った功は消せない。いま官爵・恩蔭・贈諡および諸子の官職をことごとく剥奪すればすでに懲らしめとして十分であり、どうか哀れみをもって罰をやや寛くされたい、と。容れられなかった。
  • 二品として満六年で太子少保を加えられ、まもなく兵部尚書を加えられ、都察院の事を掌ることは従前どおりであった。
  • 趙錦は御史の封事のうち採るべき数条を摘記し、旨を請うて施行させた。四川巡按の雒遵は趙錦を恨み、条奏に事寄せて趙錦を奸臣と決めつけたが、御史の周希旦と給事中の陳與郊が雒遵を不当としてそろって論じ、雒遵は外任に回された。
  • 帝が山陵に行幸した際、重ねて詔により留守を命じられた。その冬、継母の喪で帰郷した。
  • 萬曆十九年(1591年)、召されて刑部尚書に任じられたが、すでに七十六歳。再三辞したが許されず、蘇州に着いたところで没した。太子太保を追贈され、端肅と諡された。
  • 趙錦は終始清潔な節操を守り、王守仁の学を篤く信じ、人を教えるには実践を根本とした。王守仁が孔廟に従祀されたのは趙錦の尽力による。
  • はじめ嚴嵩に逆らって重い禍を受けたが、貴州道に赴任して嚴嵩の郷里を通ったとき、路傍の嚴嵩の墓を見て痛ましく思い、役所に命じて手入れさせた。のちに張居正に逆らって罷官となったが、張居正が籍没されるときには救済に努めた。人はこれをもって趙錦を長者と称した。