明史卷二百九 列傳第九十七 楊爵

字は伯珍、富平の人である楊爵。二十歳で初めて読書し、薪を灯火の代わりとして学び、韓邦竒に師事して学識と行いで名を知られた。嘉靖八年の進士。行人として湖廣の飢民の惨状を復命し、御史となった。嘉靖二十年、朝を廃して斎醮と土木に耽る帝に対し、士風の頽廃・郭勛の専横・土木の不止・朝講の廃絶・方術の信用・言路の閉塞を挙げて極諫したため詔獄に下され、法司に付されぬまま厳重に禁錮された。救おうとした周天佐・浦鋐は獄中で打ち殺され、劉魁・周怡とともに前後七年繋がれて『周易辨説』『中庸解』を獄中で著した。二度の釈放を経て家に帰り、まもなく卒した。隆慶の初めに光禄卿を追贈され、萬厯年間に忠介と諡された。

年表(8件)
  • 嘉靖八年1529年進士となり、行人に任じられる
  • 嘉靖二十年1541年元日の雪を輔臣が瑞兆と頌えたのを憤り、一月を越えて五つの危乱の兆しを挙げて極諫し、詔獄に下される
  • 嘉靖七年1528年三月、靈寳縣で黄河が澄み、御史の周相が祝賀の風潮を諫めて韶州經歴に落とされる
  • 嘉靖二十四年1545年八月、乩の言により劉魁・周怡とともに釈放されるが、帰郷十日で再び逮えられる
  • 嘉靖二十六年1547年十一月、大髙元殿の火災の際に忠臣と呼ぶ声を聞いた帝の詔で釈放される
  • 正德十二年1517年浦鋐が進士となり、洪洞知縣として優れた治績を挙げる
  • 嘉靖十四年1535年周天佐が進士となり、户部主事として清廉な操守で知られる
  • 嘉靖二十年1541年夏四月、九廟の火災に応じて上書し楊爵を救おうとした周天佐が、杖六十を受けて三日で獄死する

出自と学問

  • 楊爵は字を伯珍といい、富平の人。二十歳になって初めて読書し、家が貧しかったので薪を燃やして灯火の代わりとし、畑の畝で耕すときも書を携えて暗誦した。
  • 兄が吏となって知縣に逆らい獄に繋がれると、爵は訴状を出してその無実を訴え、ともに繋がれた。ちょうど後任の知縣が着任し、爵が上書して冤を訴えると、後任は「奇士だ」と称してただちに釈放し、学資を与えた。爵はますます学に励み、志を立てて奇節の人となろうとし、同郡の韓邦竒に従って学び、学識と行いで名を知られた。
  • 嘉靖八年(1529年)の進士となり、行人に任じられた。

行人・御史時代

  • 帝がちょうど礼の儀文を飾り整えようとしていたころ、爵は王府への使いから帰って言上した。臣が湖廣へ使いしたところ、民の多くは飢えて青ざめた顔をし、籠を提げ刃物を持って道端の餓死者を割いて食べておりました。仮に周公の制作をことごとく今日に復したとしても、老い衰えて飢え凍える人々に何の助けになりましょうか、と。奏が入ると許可の旨を得た。
  • 久しくして御史に抜擢された。母が老いたので帰って養うことを願い出た。母の喪では墓の傍らに廬を結び、冬の月に筍が生えた。車を押して畑に糞を運び、妻がその傍らで食事を運んだ。見る者は彼が御史だとは知らなかった。
  • 服喪を終えてもとの官で起用された。

嘉靖二十年の極諫

  • 帝は年を越えて朝に出ず、その年はたびたび旱が続いた。日夕に斎醮を営み、雷壇を修め、しばしば工事を起こした。方士の陶仲文には宮保が加えられ、太僕卿の楊最は諫めて死に、翊國公の郭勛はなお寵を受けて権を握っていた。
  • 二十年(1541年)元日にわずかに雪が降った。大學士の夏言、尚書の嚴嵩らが頌を作って祝賀した。爵は胸を撫でて嘆息し、夜中まで眠れず、一月を越えて上書して極諫した。
  • 今日の天下の大勢は、人が衰え病んで極まり、腹心も百骸もことごとく患いを受けているようなもので、救おうとしても手のつけようがない。しかも競い走ることが習俗となり、賄賂が公然と行われ、災変に遭っても憂えず、祥瑞でもないのに祝賀する。讒言と諂い、面前でのお世辞が欺きにまで流れ、士風人心の頽廃は極まっている。諫める臣・輔ける士は日ごとに遠ざかり、思うままにふるまう事に誰も口を挟めない。これが天下の大憂である。
  • 昨年は夏から秋にかけて晴れ続きで雨が降らず、畿輔の千里は秋の穀物を失った。そのうえ冬じゅう雪がなく、元日にわずかに雪が降ってすぐ止んだ。民は期待を失い、旱を憂える心は遠近同じである。まさに音楽をやめ食膳を減らし、憂え恐れて安んじない時であるのに、輔臣の言らはこれを瑞兆として頌えている。天を欺き人を欺くこと、甚だしすぎるではないか。
  • 翊國公の勛は内外みな大奸大蠹と知っている。陛下がこれを寵愛して悪を重ねさせ毒をほしいままにさせるので、狡猾な連中は群がり寄り、善良な者は退いている。これが人を得ずして人心を失い危乱を招く第一である。
  • 臣が南城を巡視したところ、一月のうちに凍え飢えて死んだ者が八十人、五城を合わせれば幾人になるか分からない。誰が陛下の赤子でないだろうか。わずかの間の命を延ばそうとしてもできないのに、土木の工事は十年たっても止まず、工部の属官は数十人にまで増設され、さらに官を遣わして遠方に雷壇を修めさせている。一人の方士のために民の膏血を絞りながら憐れみを知らない。やめるべきではないか。まして今は北の寇が跳梁し、内では盗賊が起こり、加えて年ごとの災いで上下ともに空しい。なお民を労し費えを浪費して天下の怨みを結んでよいのか。これが工事が止まずして人心を失い危乱を招く第二である。
  • 陛下は即位の初め、精を励まして為すところがあり、かつて『敬一箴』を天下に頒示された。ところが数年来、朝の御出ましはまれで、經筵は久しく廃れ、大小の臣下は朝参や辞見に際して一度も御姿を拝せず、意見を陳べ復命しても一言も天語を聴くことがない。人心は日ごとに怠り、内外は日ごとに離散しようとしている。これは古の盛世に君臣が「都俞吁咈」と言い合って協力し治を図った気象ではない。これが朝講に親しまずして人心を失い危乱を招く第三である。
  • 左道で衆を惑わす者は聖王が必ず誅した。いま異なる言葉と異なる服装の者が朝廷や苑囿に列し、金紫や赤い紱の賞が外方の者に及んでいる。保傅の職は座して道を論ずるものであるのに、いまそれを奇怪邪悪の輩に与えている。品格の秩序の乱れはこれ以上のものはない。陛下がまことに公卿賢士と日々に治道を論ぜられれば、心は正しく身は修まり、天地鬼神も守り享けぬはずがない。この妖しく誕妄な術を清らかな禁中に列ね、御身の累とされる必要がどこにあるのか。臣が聞くところ、上が好めば下は必ずいっそう甚だしくなるという。近ごろ妖賊が次々に起こり、誅しても絶えない。風聞の及ぶところ、人は異論を唱え、四方の笑いを残し百世の譏りを取る。小事ではない。これが方術を信用して人心を失い危乱を招く第四である。
  • 陛下は御即位の初め、忠実な謀を広く求め、心を虚しくして諫を容れられた。当時の臣下は言葉が過激に過ぎて罪を得た者も多かった。しかしそれ以来、臣下は天威に震え、危うさを抱き禍を慮り、顔を犯して直諫し陛下の心を潤す助けとなろうとする者があるとは聞かない。先年、太僕卿の楊最は言を発して身を失い、近ごろは賛善の羅洪先らがみな言によって罷斥された。国体と治道の損なわれることは甚だしい。臣は最らのために惜しんでいるのではない。古今、国家を保つ者で、諫を用いて興らず、諫を拒んで亡びなかった例はない。忠実な臣が口を閉ざせば讒諛が代わる代わる進み、安危休戚を知る手立てがなくなる。これが言路を阻んで人心を失い危乱を招く第五である。
  • どうか陛下は祖宗の創業の艱難を思い、今日の守成が容易でないことを思い、臣の奏を御覧になって施行を賜りたい。宗社にとってまことに幸いである、と。

先例としての周相の一件

  • これに先立ち、七年(1528年)三月に靈寳縣で黄河が澄んだので、帝は使者を遣わして河神を祭らせた。大學士の楊一清・張璁らはたびたび疏を上げて祝賀を請うた。
  • 御史で鄞の人である周相が疏を上げて争った。河が澄まなくても陛下の徳を損なうものではない。いま諂いを好み事を好む臣が誇張し飾り立てている。佞の風がひとたび開けば、媚びを献ずる者が続々と現れよう。祭告を取りやめ、祝賀を止め、天下の臣民に祥瑞を奏さぬよう詔し、水害・旱・蝗の害は即時に報告させられたい、と。
  • 帝は激怒して相を詔獄に下して拷問し、さらに廷で杖を加えて韶州經歴に落とした。しかし諸々の慶典もまた取りやめとなった。

投獄と長期の繋囚

  • 帝は中年になっていよいよ言う者を憎み、内外は互いに戒めて忌諱に触れようとしなかった。爵の疏は符瑞を謗り、しかも言葉が切実直截に過ぎた。
  • 帝は激怒してただちに詔獄に下した。打ち据えられて血肉は乱れ、五木(首・手・足の枷)をはめられて一夜死んだが、また蘇生した。担当官が法司へ送って罪を擬するよう請うたが、帝は許さず、獄に厳重に禁錮せよと命じた。獄卒は帝の意が測りがたいので、家人を遠ざけて飲食を差し入れさせなかった。爵はしばしば死に瀕したが、平然としていた。
  • その後、主事の周天佐と御史の浦鋐が爵を救おうとして相次いで獄中で打ち殺され、以後は救おうとする者がいなくなった。
  • 一年を越えて工部員外郎の劉魁が、さらにもう一年を越えて給事中の周怡が、いずれも言事によって同じく繋がれ、五年たっても釈放されなかった。
  • 二十四年(1545年)八月、乩に神が降り、帝はその言に感じてただちに三人を獄から出した。一月と経たぬうちに尚書の熊浃が「乩仙は妄である」と疏を上げた。帝は怒って「朕はもとより爵を釈したら、妄言して過ちを他になすりつける者が続々と出ると分かっていた」と言い、また東廠に命じて追捕させた。
  • 爵は家に帰り着いてわずか十日で校尉が至った。ともに麦飯を食べ終えるとすぐ道に就いた。校尉が「家の事を片づけたらどうか」と言うと、爵はただちに屏の前に立って妻を呼び、「朝廷が私を逮えた。私は行く」と言い、そのまま振り返らずに去った。左右で見ていた者は涙を流した。
  • 三人が着くと、また同じく鎮撫の獄に繋がれた。手枷足枷はいっそう厳しくなり、飲食もしばしば絶えたが、たまたま天の幸いがあって死なずに済んだ。
  • 二十六年(1547年)十一月、大髙元殿が火災に遭った。帝が露臺で祈ったところ、火光の中で三人を忠臣と呼ぶ声がするようであった。そこで詔を伝えて急いで釈放した。
  • 家に居ること二年、ある日の朝に起きると大きな鳥が家に集まった。爵は「伯起(後漢の楊震)の祥が来た」と言い、果たして三日で卒した。
  • 隆慶の初め、官を復して光禄卿を追贈し、子一人を任官させた。萬厯年間に忠介と諡された。

獄中での日々

  • 爵が初めて獄に入ったとき、帝は東廠に爵の言動をうかがわせ、五日に一度奏させた。校尉の周宣がいくらか手心を加えたので譴責を受けた。二度目に入ったときは、廠の事を掌る太監の徐府が奏報したが、帝は「密諭を口外すべきでない」として、これも重く罪を得た。
  • 前後七年繋がれたが、日々に周怡・劉魁と切磋して講論し、困苦を忘れた。著すところの『周易辨説』『中庸解』は獄中での作である。

浦鋐(附伝)

  • 浦鋐は字を汝器といい、文登の人。正德十二年(1517年)の進士となり、洪洞知縣に任じられて優れた治績があった。
  • 嘉靖の初め、召されて御史となった。刑部尚書の林㑓が国を去り、中官の秦文が一度斥けられながら再び用いられると、鋐は疏を上げて力争し、さらに武定侯の郭勛は奸貪であるからその兵権を罷めるべきだと言上した。旨に逆らって俸三か月を奪われた。母を養うために帰り、母の喪が明けると起用されて河南道の事を掌った。
  • 給事中の饒秀が考察で罷免された者を暴いたとき、鋐は同僚の張禄・段汝礪、給事中の李鳳来、考功郎の余允緒とその処置の得失を論じ合った。鋐らはその責で罷免され、家に居ること七年に及んだ。
  • 廷臣がこぞって推薦し、もとの官で起用され、陝西の巡按として出た。続けざまに四十余通の疏を上げ、總督の楊守禮が格を破って抜擢するよう請うたが、返答のないうちに、楊爵が直諫によって詔獄に繋がれた。

浦鋐(附伝)――楊爵救援と獄死

  • 鋐は疏を馳せて救援を申し立てた。臣が思うに、天下の治乱は言路の通塞にかかっている。言路が通ずれば忠諫が進んで化理が成り、言路が塞がれば奸佞が恣にして治道が壊れる。御史の爵は言事によって下獄し、幽囚は既に久しく、懲りることも深いはずである。
  • 臣が富平を巡行したところ、みな「爵は誠実で郷里に信を得ており、孝友は風俗の手本で、古の賢士の風がある」と申しております。しかも爵はもともと郭勛を論じて罪を得たのであり、いま勛の奸悪は大いに露呈し、陛下も既に処断されました。ならば爵の以前の言葉は道理に背いた妄言ではありません。どうか天地の広い度量を発し、日月の照らしを垂れて、赦して朝廷の列に加えられたい。爵は必ず忠を尽くして過ちを補い、学んだところに背かぬでしょう、と。
  • 疏が奏せられると帝は激怒し、緹騎を急がせて逮捕させた。秦の民が遠近から駆けつけて見送り、車の下に身を投げる者はつねに万人に及び、みな号泣して「わが使君を返してくれ」と言った。
  • 鋐は召喚に応じたときすでに病んでいた。着くと詔獄に下され、拷問を尽くされ、除日(大晦日)にはさらに杖百を加えられ、鉄の檻に禁錮された。爵が迎えて泣くと、鋐は息が絶えかけていたが、ゆっくり目を開いて「これが私の職分だ。あなたはそんな風にしないでほしい」と言った。繋がれて七日で卒した。
  • 穆宗が即位すると、恤典は爵らと同等であった。

周天佐(附伝)

  • 周天佐は字を子弼といい、晋江の人。嘉靖十四年(1535年)の進士となり、户部主事に任じられた。たびたび倉場の分司を務め、清廉な操守で知られた。
  • 二十年(1541年)夏四月、九廟が火災に遭い、百官に時政の得失を言えとの詔が下った。天佐は上書して言った。陛下は宗廟の災変によって痛切に自ら修省され、諸臣に欠失を直言するのを許された。これは災いを転じて祥とする機会である。
  • しかし今、欠けた政は少なくないのに忠言はまだ十分に聞かれていない。思うに、人に言葉を示すのは、人に政を示すのに及ばない。言を求める詔は人に言葉を示すにすぎない。御史の楊爵の獄が解けていないのは、まだ人に政を示していないということである。
  • 国家が言官を置くのは、言うことをその職としているからである。爵が獄に繋がれて数か月、聖怒はいよいよ甚だしく、一つには「小人」と言い、二つには「罪人」と言われる。言葉を尽くして直諫するのを小人とされるなら、黙って迎合する君子になるのは難しくない。まっすぐに忠を尽くすのを罪人とされるなら、誰が迎合し追従する功臣になれないだろうか。
  • 人君の一度の喜び一度の怒りには上帝が臨んでおられる。陛下が爵に怒られるのは、はたして天心に適っているのか。爵の身は木石ではなく、命も測りがたい。万一朝露のように先立てば、諫める臣は恨みをのみ、直き士は心を寒くし、聖徳を損なうことは小さくない。どうか爵の忠を旌して天下を教化されたい、と。
  • 帝は奏を見て激怒し、杖六十を加えて詔獄に下した。天佐はもともと体が弱く鞭に堪えず、獄吏が飲食を絶ったので、三日と経たずに死んだ。年はわずか三十一であった。
  • 屍が獄を出るころ、白日の中に雷が突然鳴り響き、人はみな顔色を失った。
  • 天佐は爵と平生の交わりがなく、獄に入ったときも、爵とは扉を隔てて安否を問い合った程度であった。大興の民に、その柩を祭って慟哭する者があった。人が理由を問うと、その民は「私はその忠が至って篤いのに死に方が惨たらしいのを傷んでいるのだ」と言った。
  • 穆宗が即位すると光禄少卿を追贈し、天啟の初めに忠愍と諡した。