明史卷二百九 列傳第九十七 馮恩
字は子仁、松江華亭の人である馮恩。幼くして父を亡くし、母の吳氏に育てられて学に励み、嘉靖五年の進士となって王守仁に贄を執って学んだ。南京御史として獄案の相互検証や南臺の糺弾の旧例を守らせ、南北郊の分祀と皇后の親蚕を諫めた。嘉靖十一年の彗星に応じて大臣一人ひとりの邪正を評し、張孚敬を根本の彗星、汪鋐を腹心の彗星、方獻夫を門庭の彗星と呼んで極論したため詔獄に下され、死罪と論じられた。朝審の場で汪鋐に一歩も引かず、士民から「四鐵御史」と称された。子の行可が血書で身代わりを願い出たことで雷州への流刑に減じられ、赦されて帰郷し、八十一歳で卒した。
年表(7件)
- 嘉靖五年1526年進士となり行人に任じられ、兩廣總督の王守仁に贄を執って弟子となる
- 嘉靖十一年1532年冬の彗星に応じた求言の詔に対し、大臣の邪正を具体的に評した疏を上る
- 1533年春、刑部の獄に移され、大臣の徳政を上言した律を当てられて死罪と論じられる
- 1534年子の行可が父に代わって死にたいと上書し、冬には血書を携えて闕下に自らを縛って訴える
- 隆慶五年1571年弟の馮時可が進士となり、累進して按察使に至る
- 嘉靖二年1523年薛宗鎧が叔父の薛僑とともに進士となり、貴溪知縣に任じられる
- 嘉靖十四年1535年九月一日、汪鋐を弾劾した薛宗鎧と曽翀が廷杖の下で死ぬ
出自と南京御史時代
- 馮恩は字を子仁といい、松江華亭の人。幼くして父を亡くし家は貧しかったが、母の吳氏が自ら教育に当たった。長ずるにつれて学問に励むことを知った。大晦日の夜、米がなく、しかも雨で部屋じゅうが濡れていたのに、恩は寝床の上で平然と読書していた。
- 嘉靖五年(1526年)の進士となり、行人に任じられた。両廣總督の王守仁を慰労に出向いた際、贄を執って弟子となった。
- 南京御史に抜擢された。旧例では御史が取り調べた事案は、獄を確定せずに刑部に移し、刑部で獄が成れば御史に報せることはしなかった。恩は尚書に対し、なお御史へ報せるよう請うた。諸曹の郎中は騒ぎ立てて「御史は我らを属吏扱いする気か」と言った。恩は「そういうつもりではない。事の経緯を知って相互に検証できるようにしたいだけだ」と言い、尚書は反論できなかった。
- 上江を巡視した際、指揮の張紳が人を殺したので、ただちに死刑に処した。
- 大計の朝覲の官については、南臺(南京の都察院)が先に糺弾するのが例であった。ところが都御史の汪鋐が権を専らにし、北臺(北京)と同じにして、事が終わってから初めて論列を許すよう請うた。恩は給事中の林士元らとともに疏を上げて争い、もとどおりとすることができた。
南北郊分祀への諫言
- 帝が閣臣の議を用いて南郊と北郊を分けて建て、さらに皇后に北郊で蚕を行わせようとした。廷臣それぞれに意見を述べよとの詔が下ったが、その詔の中でしばしば異議を唱える者を「邪徒」と斥けていた。
- 恩は言上した。臣下が意見を申し上げるのはたいへん難しい。明詔で直諫を命じながら、また邪徒だと謗られては、どうしてよいか分からない。これは陛下の御意ではなく、必ず側近の奸佞の輩が自分の説を通そうとして陰で謗っているのだ。
- いま士風は日ごとに衰え、黙っていることを老成とし、直言することを激しすぎるとする。それだけでも忠直であるのは難しい。まして異議があるのを先回りして恐れ、あらかじめ邪だと謗るのであれば、雷同して付和するほかなくなる。
- しかも天地の合祀は既に百余年に及んでいる。軽々しく改めてよいものではない。礼として男は内を語らず女は外を語らない。皇后は九重の奥深くに居られる。どうして遠く郊野に出られてよいだろうか。速やかに二つの議を取りやめ、事を好み寵を求める者に誤られませんように、と。
- 恩は疏を草するとき、自分でも重い譴責を受けるだろうと思っていたが、疏を奏したとき帝は罪としなかった。恩はこれによっていっそう感激し奮い立った。
彗星に応じた大臣の人物評
- 十一年(1532年)冬、彗星が現れ、直言を求める詔が下った。恩は「天の道は遠く人の道は近い」として、大臣の邪正を具体的に指摘した。
- 大學士の李時は、小心で謙り抑えているが、もつれを解き乱を収めるのは得意ではない。
- 翟鑾は、勢いに付き従い禄を守り、ただ曖昧に構えているだけである。
- 户部尚書の許讃は、謙り厚く穏やかで、決断力には欠けるが、筋の通らぬ出費は必ずしない。
- 禮部尚書の夏言は、多くを蓄えた学問と縛られない才を持ち、うまく使いこなせば時世を救う宰相となりうる。
- 兵部尚書の王憲は、剛直で屈せず、事に通じて為すところがある。
- 刑部尚書の王時中は、進退に機微を弁えず、萎えて振るわない。
- 工部尚書の趙璜は、廉直で自ら持し、節度を守って慎み深い。
- 吏部尚書左侍郎の周用は、才と学は十分だが、直く諒とするところに欠ける。
- 右侍郎の許誥は、講論は敏捷だが、学術は迂遠で邪である。
- 禮部左侍郎の湛若水は、徒を集めて講学しているが、平素の行いは人心に合っていない。
- 右侍郎の顧鼎臣は、鋭く目覚めて筋を通し、一つの長所に偏らず、器量は重任に堪える。
- 兵部左侍郎の錢如京は、静かで節操がある。
- 右侍郎の黄宗は、文学に長けてはいるが、人に頼って事を成すだけである。
- 刑部左侍郎の聞淵は、心の持ちようが正大で、事の処し方は精密詳細であり、股肱として頼める。
- 右侍郎の朱廷聲は、篤実で浮ついたところがなく、謙り控えて守るところがある。
- 工部左侍郎の黎奭は、滑稽で浅薄だが、才も為すところがある。
- 右侍郎の林廷㭿は、才器は取るに足り、通達して固執しない。
「三彗」の論
- そのうえで、大學士の張孚敬、方獻夫、右都御史の汪鋐の三人の奸を極論した。
- 孚敬については、剛にして悪、凶険で嫉み深く、変わり身が早い。近ごろ都給事中の魏良弼が既に痛烈に述べているので繰り返さない、と述べた。
- 獻夫については、外は謹厚を装いながら内実は詐り奸である。かつて吏部にあったとき、郷里に私し恩讐に報いて、やらぬことがなかった。昨年は偽って病と称して去り、陛下が使者を遣わして召され、礼と意を尽くされたのに、彼はかえって傲然と構えて山に入り読書し、別の官に用いるとの伝旨を待って初めて喜んで道に就いた。吏部尚書の身で「別に用いる」といえば、入閣以外にない。獻夫の病が癒えたのはこのためである。いままた兼ねて吏部を掌らせれば、必ず同類を呼び寄せ威福を弄び、国事を大いに壊すまでやめないだろう、と述べた。
- 鋐については、鬼のようで妖のようで、正体をつかめない。仇とするのは忠良ばかり、図るのは報復ばかりである。今日はある官を降せと奏し、明日はある官を転任させよと奏する。自分が憎む者でなければ宰相の憎む者である。陛下が鋐を腹心として頼まれたのに、鋐が奸を逞しくし私を務めることがここまでになるとは思わなかった。しかも都察院は綱紀の首である。陛下が早く忠厚正直の人に替えられなければ、万一御史が命を受けて出て、彼の刻薄さに倣って職を果たしたと称されようとし、天下の民の害となるのは言い尽くせない、と述べた。
- そこで臣は言う。敬孚は根本の彗星であり、鋐は腹心の彗星であり、獻夫は門庭の彗星である。三つの彗星を除かなければ、百官は和せず、庶政は平らかにならない。災いを消したいと思っても、得られないであろう、と。
投獄と論死
- 帝は疏を見て激怒し、逮捕して錦衣の獄に下し、主使者の名を追及した。恩は日々に打ち据えられ、死にかけたことも数度に及んだが、言葉はついに変わらなかった。ただ、御史の宋邦輔がかつて南京を通ったとき、朝政と諸大臣の得失について話し合ったことがあると述べた。そこで邦輔も逮捕されて下獄し、職を奪われた。
- 翌年(1533年)春、恩を刑部の獄に移した。帝は「大臣の徳政を上言した」という律を適用して死に至らしめようとした。尚書の王時中らは「恩の疏は毀と誉が相半ばしており、もっぱら大臣を頌えたものではない。戍に減ずるべきだ」と述べた。
- 帝はますます怒って言った。「恩は孚敬ら三臣を指したのではない。ただ大禮の一件のゆえに君を仇とし上を無みしたのだ。死んでも余りある罪だ。時中は公を欺いて爵を売ろうというのか」と。そこで時中の職を剥奪し、侍郎の聞淵の俸を奪い、郎中の張國維と員外郎の孫雲を極辺の雑職に落とし、恩はついに死罪と論じられた。
- 長子の行可は十三歳であったが、闕下に伏して冤を訴え、日夜長安街を這い回り、冠をかぶり車蓋を立てた者が通れば車の轅に取りついて号泣し救いを乞うたが、ついに敢えて言い出す者はなかった。
「四鐵御史」
- このとき鋐は既に吏部尚書に遷り、王廷相が代わって都御史となっていた。廷相は恩の刑が妥当でないとして疏を上げて寛大な処置を請うたが、聴かれなかった。
- 朝審のとき、鋐が主筆に当たって東を向いて座った。恩ひとりは闕の方を向いて跪いた。鋐が卒に命じて西向きに引きずらせようとしたが、恩は立ち上がって屈せず、卒が叱りつけると、恩が怒って卒を叱ったので、卒はみな怯んだ。
- 鋐は「お前はたびたび疏を上げて私を殺そうとした。私は今日、先にお前を殺す」と言った。恩は叱って言った。「聖天子が上におられる。お前は大臣でありながら私怨で言官を殺そうというのか。しかもここをどこと心得て、百官に向かって公然とそれを言うのか、なんと憚りのないことか。私は死んで厲鬼となり、お前を撃つ」と。
- 鋐は怒って「お前は廉直を自負しながら、獄中で人から多くの贈り物を受けているのはなぜだ」と言った。恩は「患難に互いに助け合うのは古の義だ。お前が金銭を受けて官爵を売るのと同じか」と答え、その事を一つ一つ数え上げて鋐を謗ってやまなかった。
- 鋐はますます怒り、机を押しやって立ち上がり殴りかかろうとしたが、恩の声はいよいよ厳しくなった。都御史の王廷相と尚書の夏言が大局を説いて取りなしたので、鋐はやや収まった。しかし判決には「情真」と署した。
- 恩が長安門を出ると、見物の士民が垣のように並び、みな嘆じて言った。「この御史は口が鉄のようなだけではない。その膝も、その胆も、その骨もみな鉄のようだ」と。そこで「四鐵御史」と称された。
- 母の吳氏が登聞鼓を撃って冤を訴えたが、取り上げられなかった。
子行可の上書と減刑
- さらに翌年(1534年)、行可が上書して父に代わって死にたいと請うたが、許されなかった。
- その冬、事態がいよいよ切迫すると、行可は腕を刺して血で疏を書き、自らを縛って闕下に至って言った。臣の父は幼くして父を失い、祖母の吳氏が節を守って育て上げ、御史となるに至りました。一家をあげて禄を受けながら報いる術もなく、身の程を越えた憂えから大辟に陥りました。祖母の吳は年すでに八十余、憂え傷むことが深く、わずかに息があるばかりです。もし臣の父が今日死ねば、祖母の吳も必ず今日死にましょう。父が死に祖母もまた死ねば、臣はひとり孤りとなって必ず生きてはおれません。
- どうか陛下が憐れみをかけられ、臣を刑に処して臣の父を赦し、母子二人の命を延ばしてくださいますよう。陛下が臣を殺されても臣の心は傷みませんし、臣が殺されても陛下の法は傷みません。謹んで首を伸ばして白刃をお待ちいたします、と。
- 通政使の陳經が取り次いで奏上した。帝はこれを見て憐れみ、法司に再議させた。
- 尚書の聶賢と都御史の廷相は、先に引いた律は情と法が合っていないので、奏事不実の律を用いて贖罪させ職に復すべきだと述べた。帝が許さないので、「恩の情は重く律は軽い、辺境の戍に流されたい」と述べ、それが裁可された。そこで雷州に流された。鋐もまた二か月後に罷免された。
晩年
- 六年を経て赦に遇って帰り、家に居ってもっぱら郷里のために徳を施した。
- 穆宗が即位すると先朝の直言の臣を録用したが、恩は年すでに七十余であったので、家にいるまま大理寺丞を拝命して致仕した。さらに担当官の言に従って行可を孝子として旌表した。恩は八十一歳で卒した。
馮行可・馮時可(附伝)
- 行可は父を死から救い出した後、数年して郷試に及第したが、久しく進士には及第しなかった。銓選に応じて光禄署正を得、應天府通判に遷って善政があった。
- 弟の時可は隆慶五年(1571年)の進士。累進して按察使となり、文名があった。
宋邦輔(附伝)
- 宋邦輔は字を子相といい、東流の人。罷免されて帰ってからは自ら耕して親を養い、妻は水汲みと臼つきをし、子は薪取りと牧をした。折々に農夫と会して飲み、酔えば歌を作って唱和した。その高い風格は遠近を動かし、その門を訪れる士大夫は輿と従者を退けてから入った。
薛宗鎧(附伝)――出自と地方官
- 薛宗鎧は字を子修といい、行人司正の薛侃の甥である。嘉靖二年(1523年)に叔父の薛僑とともに進士となり、貴溪知縣に任じられた。
- 將樂に補せられ、建陽に転じた。朱子の子孫を探し出して復籍させ、祭祀を主らせた。飢饉の年には倉の粟を出して救い、先に配ってから報告した。
- 勤務評定のため京に赴いたところ、留められて禮科給事中を拝命した。未納の賦税の督促のため任地に戻ると、民は競って税を納め、勤務評定はさらに最上位となり、詔でふたたび言官の職に入った。
薛宗鎧(附伝)――汪鋐弾劾と杖死
- 再び遷って户科左給事中となった。吏部尚書の汪鋐が私怨によって王臣らを斥けたとき、宗鎧はその冤を明らかにした。その経緯は戚賢の伝に記す。
- その後、鋐はますます驕った。折しも御史の曽翀・戴銑が南京尚書の劉龍・聶賢ら九人を弾劾したところ、鋐は覆審の疏で全員を留任させようとした。帝が大學士の李時を召して問うと、時は「鋐には私心がある」と述べ、三人を留めて六人を斥けた。
- 宗鎧は同僚の孫應奎とともに重ねて言上した。鋐は奸をほしいままにして党を植え、君主の威福を専らにし、巧みに劉龍らを庇っている。上は明詔に背き、下は公論に背く。しかも二人の子を放って不正の利を得させている、と。
- 鋐は疏で弁明して辞職を願い出たが、帝は許さなかった。給事中・御史の翁溥・曹逵らが相次いで鋐を弾劾し、鋐はまた抗弁して、宗鎧らが私情を挟んでいると激しく謗った。
- 翀は重ねて「鋐はひとたび弾劾されるとたちまち中傷をほしいままにする。諫諍の臣が口を閉ざして既に三年、言路を塞いだ罪はこれより大きいものはない。ただちにその刑を正されたい」と言上した。
- 帝は果たして鋐の官を罷めたが、宗鎧には「言うのが遅かった」と責め、また翀の「諫諍の臣が口を閉ざした」という言葉を憎み、彼らを捕らえて鎮撫司に下して取り調べさせた。供述は應奎・逵および御史の方一桂にも及び、みな闕下で杖を受けた。宗鎧・翀・一桂は庶民に落とされ、應奎・溥・逵らは官階を削られて外任に転じた。
- 宗鎧と翀は杖の下で死んだ。十四年(1535年)九月一日のことであった。隆慶の初め、宗鎧の官を復し、太常少卿を追贈した。
曽翀(附伝)
- 曽翀は字を習之といい、霍邱の人。進士から南京刑部主事に任じられ、御史に改められた。
- 廷杖を受けて死にかけたとき、「臣の言はすでに行われた。臣が死んで何の恨みがあろう」と言い、神色に変わりがなかった。隆慶の初め、太常少卿を追贈された。