出自と御史時代
- 顔鯨は字を應雷といい、慈谿の人。嘉靖三十五年(1556年)の進士となり、行人に任じられ、御史に抜擢された。
- 倉場の視察に出たとき、奸人の馬漢が定國公の勢いを頼んで高利で銭を貸し、漕運の卒が期日どおりに返せないとその糧を没収していた。恨みを持つ者が訴え出た。漢は定國公の書状を持ってきたが、鯨はただちに論断して彼を処刑した。
- 四十一年(1562年)、畿輔・山東・山西・河南の南北が大豊作となった。鯨は、州県の贓罰銀を京師に送らず、すべて粟に換えて救荒に備え、あわせて内府の新銭を出して買い付けの元手とするよう請うた。帝はことごとく許可した。さらに漕政について便宜六か条を上申した。
伊王典楧の弾劾
- 翌年(1563年)、河南の巡按として出た。伊王の典楧は久しく悪事を重ね、掖廷の中官や嚴嵩父子と結んで内外で呼応し、願い出れば奏はただちに下り、手下を率いて鉱山の盗賊にまでなっていた。
- 鯨はこれを除こうと考え、參政の耿隨卿と謀り、王の承奉である王鑑の罪を押さえた。鑑は日々王の企てを告げるようになった。
- このとき嵩はすでに失脚していたので、鯨は徐階に書を送り、諸大璫(有力宦官)を説いてその後ろ盾を絶たせた。さらに王が放っていた探偵の早馬をことごとく捕らえ、寇に備えるためと称して知府に檄を出し、兵を分けて要害の地に駐屯させた。
- そのうえで巡撫の胡堯臣と会同し、典楧が旨に逆らい、敕を偽り、僭越にふるまい、淫らで残虐であることなど十の大罪を弾劾した。王の護衛と亡命者ら幾万人がいたが、動くことができなかった。
- 帝は激怒し、王を廃して庶人とし、高牆に幽閉し、その資産を没収し、世襲の封を削った。両河の人々は喜び舞って祝い合った。
権勢家との対決
- 景王が封国に赴くとき、境を越えて民の産を奪って荘田としたので、鯨はその手先を捕らえて処断した。
- 魏國公が民の産を侵し、「欽賜」の名を借りて碑を建てて境界としていたので、鯨はその碑を倒し、当人を戍に送った。
- 錦衣衛の長官が任侠の若者たちから金を受け取り、その名を校尉の名簿に載せていたので民の害となっていた。列侯が王府へ遣わされると道中の駅は騒がされ、王府の内官が進奉のために龍舟を仕立てて通る先々でほしいままにふるまっていた。
- 鯨は、校尉に欠員が出たら兵部から補充すること、冊封は文臣に改めること、王府の進奉は属吏に行わせること、詔冊で親王および妃を封ずるときは列侯を遣わすことを請い、その他はすべて鯨の議のとおりに改められた。
畿輔學政と失脚
- 畿輔の學政を督することに改められた。大興知縣の髙世儒が詔を奉じて役を逃れた者を調べたところ、都督の朱希孝が「軍籍の者を勾引した」として弾劾し、部の議に下された。
- 鯨は希孝が法を乱していると弾劾して言った。世儒らは帳簿に照らして商戸を呼び出したのであって、禁軍を勾引したのではない。これは禁軍の子弟や家人が城社を頼んで禁衛の名を騙り、そのため役人が問いただせなくなっているのだ。富める者は詔に抗し、貧しい者は溝に骸をさらすことになる。世儒に罪はなく、罪は錦衣にある、と。
- 帝は怒り、勲臣を誹謗し誣告したとして鯨を責め、安仁典史に貶した。
- 隆慶元年(1567年)、湖廣提學副使を歴任した。恩貢生の試験のことで張居正の意に添わず、山東參議に降され、行太僕少卿に改められた。都御史の海瑞が鯨を非凡の才として推薦したが、返答はなかった。
- 鯨は河南を巡按したとき新鄭の知縣を罷免したが、その人物は髙拱が庇っていた者であった。湖廣にいたとき、王篆がその父を郷賢に祀ろうとしたのを、頑として許さなかった。このとき拱が吏部を掌り、篆が考功であったため、「不謹」を理由に鯨の職を落とした。
- 萬厯年間、給事中の鄒元標、御史の饒位が章を重ねて推薦したが取り上げられなかった。
- 御史の顧雲程が言上した。陛下は埋もれた人材を大いに起用されているのに、ひとり鯨と管志道だけが考察を理由に阻まれている。宰相と冡宰が賢明であれば、暗愚な者を退けるのは公の典である。そうでなければ異己を追い払うだけのことだ。近ごろまた考察に引っかかった吳中行・艾穆・魏時亮・趙世卿を登用しながら、ひとり鯨と志道に対してだけ渋るのはなぜか、と。
- 給事中の姜應麟・李𢎞道もこれを言上した。鯨はわずかに湖廣副使の資格で致仕し、内外の論薦は十余通に上ったが、ついに用いられなかった。
史論
- 贊に言う。伝えに「信を得ないうちに諫めれば謗りと思われる」とある。しかし志節の士は忠愛の情に切なるあまり、信を得ていないからといって君から自ら離れることに堪えられようか。張芹らは真心を抱いて奮い立ち、事を論じた。その言葉はすべてが用いられたわけではないが、要するに口をつぐんで黙している者とは違っていた。