平度知州
- 周思兼は字を叔夜といい、華亭の人。若くして文名があった。嘉靖二十六年(1547年)の進士となり、平度知州に任じられた。
- 自ら郊野を巡り、竹の輿に座り、飯を一椀携えて、郷民に順に担がせて回った。そのため民間の苦しみをことごとく知り、残らず免除してやった。
- 王府の宦官が荘園の下男を放って民の産を奪わせ、監司が下男を杖で打って死なせた。宦官が王に迫って奏聞させ、巡撫の彭黯が思兼にこれを裁かせた。王は酒宴を設けて頼み事をしようとしたが、席が終わるまで言い出せなかった。
- 思兼は獄の判決文にこう記した。これは杖の執行が法どおりでなかったのだから、罪は杖に当たるが、王の件であるから一等を加える。宦官は誣告であるから罪は戍に当たるが、王の件であるから軽減する、と。監司はついにもとの官階に復した。
- 隣郡の飢えた民が食を掠め、担当官が急に取り締まったので今にも乱になろうとしていた。上官が檄を出して思兼に処理させた。思兼は小さな木の札を数千枚作って四郊に配り、札を持って撫綏に応ずるよう命じ、ことごとく銭と穀を与えて救った。事は収まった。
- 入覲のとき治績第一に挙げられ、転任することになったが、州の人が闕下に走って留任を請うたので、さらに一年留まった。
工部・湖廣時代
- 工部員外郎に抜擢され、臨清の磚厰を監督した。士民は道を塞いで泣いて見送った。同年の生で思兼に容貌が似ている者が平度を通ったとき、民は競って走り寄って謁見し、別人と分かるとそれぞれ嘆息して去った。
- 黄河が決壊しようとしたとき、思兼は民を募って堤を築き、自ら炎天下に立った。堤が成って三日で秋の増水が大いに発したが、民は災いを免れた。郎中に進んだ。
- 湖廣僉事として出た。岷府の宗室五人は封爵がみな将軍であったが、人を殺し財貨を掠めていたので、監司が武岡に入るのを避けて二十年になっていた。思兼は奸悪の状を調べ上げ、その一味を縛ってことごとく獄に繋いだ。
- 五人が鋭利な刃物を隠して来ると、思兼は会釈しつつその腕をなで、「私は将軍の一族百口のために計っているのに、将軍はこの者どもために死なれるのか」と言った。みな気をそがれて退いた。そこでその罪を列挙して奏聞し、ことごとく高牆に幽閉し、田宅と子女を民に返した。
- 内艱(母の喪)に遭って官を去り、二度と出仕しなかった。久しくして廣西提學副使として起用されたが、命を聞かぬうちに卒した。