明史卷二百八 列傳第九十六 洪垣

出自と宮僚選任への反対

  • 洪垣は字を峻之といい、婺源の人。嘉靖十一年(1532年)の進士。禮部侍郎の湛若水が京師で講学していたので、垣はその門で学んだ。永康知縣に任じられ、召されて御史となった。
  • 十八年(1539年)、世宗が南巡して皇太子を冊立し、閣臣の夏言・顧鼎臣に宮僚を選ばせた。垣は重ねて疏を上げ、温仁和・張衍慶・薛僑・胡守中・屠應竣・華察・胡經・史際・白悦・皇甫涍らはみな凡庸の輩で、東宮の輔導に当たらせるべきではないと言上した。帝もすでに他の諫官の言に従って数人を廃していた。

黄禎らの弾劾

  • ほどなく、文選郎中の黄禎が、以前に選郎の楊育秀に賄賂を贈って考官となり、文選の任にあっては貪欲で人を欺いていることを弾劾した。知州の王顯祖らは考察で閑職に回されるべきなのに大州の知縣に補され、何瑚は六十を過ぎているのに御史に選ばれた。いずれも制度に反する。いま京官の大計に当たって、卑俗な曹世盛を考功郎としたのは、国を誤ること甚だしい、と。
  • 帝はその章を都察院に下し、吏科と会同して調査させた。そこで禎は詔獄に下され、育秀・顯祖らはみな庶民に落とされた。さらに吏部尚書の許讚と都御史の王廷相を詰責し、十三道の御史に、年齢を隠して不当に進んだ何瑚のような者を公挙させた。御史の王之臣ら四人が転任処分となり、世盛も他の部に改められた。
  • 垣の一通の疏によって、御史や曹の郎中以下、罪を得た者は二十余人に及んだ。

晩年と学問

  • 廣東の巡按として出て、安南が服属したことによって俸を一級加えられた。任期を終えぬうちに温州知府として出された。
  • 飢饉の年に米の売却を止める者があり、飢えた民がこれを殺した。垣はその責を負って職を落とされ帰郷した。
  • 再び同郷の方瓘とともに湛若水のもとに従った。若水は二妙樓を建てて彼らを住まわせた。家で四十余年を過ごし、九十歳になった。

方瓘(附伝)

  • 瓘は仕官の志を絶っていた。かつて廣東から帰る途中、同行の友が瘴気で船中で死んだ。慣例では屍を載せないので、瓘はこれを秘して告げず、幾日も屍とともに寝て、韶州に着いてから初めて明らかにした。

吕懐(附伝)

  • 垣と同年の吕懐は廣信の永豐の人で、やはり湛若水の高弟であった。
  • 庶吉士から兵科給事中に任じられ、春坊左司直郎に改められ、右中允を歴て南京翰林院の事を掌った。
  • つねに「王氏の良知と湛氏の體認天理とは同じ趣旨であり、その要は気質を変化させることにある」と説き、『心統圖説』を作ってこれを明らかにした。南京太僕少卿で終わった。