明史卷二百七 列傳第九十五 張選

出自

  • 張選は字を舜舉、黄正色は字を士尚といい、ともに無鍚の人。同じく嘉靖八年(1529年)の進士に登った。
  • 正色は仁和知縣に、選は蕭山知縣に任じられ、隣り合う地であった。選は蕭山の治政で名声を得た。

親祭を請うて廷杖を受ける

  • 嘉靖十二年(1533年)冬、選はまず入って戸科給事中となった。
  • 翌年四月、太廟の時享に武定侯の郭勛を代祭に遣わすことになると、選は上言した。宗廟の祭は誠と敬に尽きる、孔子は「われ祭に与らざれば祭らざるが如し」と言い、伝には「神は非類を歆けず」とある、孟春の廟享に官を遣わして代行させたのは、内外の臣もやむを得ぬ事情と察したが、この孟夏の祫享までも親行されないとあっては怠慢に見える、もし聖体が回復したばかりで動くのが難しいなら、礼官に命じて前もって廟に告げ、陛下も静かに斎宮に籠って神に通じられるべきだ、と述べた。
  • 帝は疏を読んで大いに怒り、礼部に下した。尚書の夏言らは、代祭の規定は『周官』に載っており、『論語』に「子の慎む所は斎・戦・疾」とあって、疾を慎むことは祭を慎むのと変わらない、選の言は正しくないが、小臣の無知ゆえ曲げて赦されたい、と述べた。
  • 帝はいよいよ怒り、言らを党を組んでいると責め、選を闕下に引き出して杖八十を加えるよう命じた。帝は文華殿に出御して執行を聴き、一人が杖を打ち終えるごとにその数を報告させた。杖は三本折れ、引き出されたときには死んでいた。それでも帝の怒りは解けず、その夕は大内に入らず殿のまわりを歩き回って「祭祀記」一篇を著し、一夜のうちに版に刻ませ、翌朝これを百官に分け与えた。一方、選は家人が良薬を服ませて蘇生した。帝は結局、選の官籍を削った。
  • 選は在職わずか三か月で言論により罪を得たが、その名は海内に轟いた。

黄正色――霍韜の一族を法で縛り、鮑忠らを弾劾して遼東へ

  • 正色はこのとき憂(喪)に服しており、服喪を終えて香山知縣に補せられ、まもなく南海知縣に改められた。座主の霍韜の一族が横暴を極めていたが、正色は法をもって縛った。韜はかえって賢しとし、県内の豪強は跡を隠した。
  • 大理寺の官を経て、嘉靖十七年(1538年)に召されて南京御史となった。兵部尚書の張瓉の奸貪を弾劾して事実の跡も明らかであったが、そのうち「藩司・臬司を歴任して一つも善状がない」との文言に対し、瓚が自分は藩司・臬司には任じていないと申し立てたため、帝は誣告として二か月の俸を奪った。
  • 翌年、章聖太后の梓宮が南に葬られるとき、正色は護送を命じられた。事が終わると、中官の鮑忠、駙馬都尉の崔元、禮部尚書の温仁和が道中で贈り物を受け取ったと弾劾した。帝が忠らを召して詰問すると、みな頓首して哀を乞い、そのうえで正色が梓宮の前で馬に乗り扇を持ち、川を渡る難所でも舟に従って護送しなかった、大不敬である、と讒言した。
  • 帝は怒って直ちに捕らえて詔獄に下し、拷問して遼東へ流した。
  • 正色と選は初めから志を同じくして親しく、こうして相前後して直節によって世に知られた。正色は戍所に三十年おり、その顛倒と窮困は選よりもさらにひどかった。
  • 穆宗の初め、選は通政參議として起用されたが、老齢のため致仕を許された。正色は召されて大理丞となり、少卿に進み、まもなく南京太僕卿に遷り、これも年齢を理由に致仕した。選が先に没し、正色はその数年後に没した。