明史卷二百七 列傳第九十五 劉世龍

南京太廟の火災に応じた三事の上疏

  • 劉世龍は字を元卿といい、慈谿の人。正德十六年(1521年)の進士で、太倉知州に任じられ、國子助教に転じ、南京兵部主事に遷った。
  • 嘉靖十三年(1534年)、南京の太廟が焼けると、世龍は詔に応じて三事を陳べた。
  • 第一に、諂諛を杜いで風俗を正すこと。天下の風俗が正しくないのは人心が壊れたためで、人心が壊れたのは得失を患えるからである。今、天下は刻薄を尚び、変詐を高しとし、諂媚を師とし、阿諛と党比に寄りかかる。仕える者は上で日々壊れ、学ぶ者は下で日々壊れ、彼が唱えれば此が和して靡然と風をなしている。陛下が断然これを正し、詭随・阿比の者を賢とせず、正直・骨鯁の者を不肖とせず、私的な好みで賞さず、私的な憎しみで罰せず、心を虚しくして邪佞を防ぎ、謙って忠讜を迎え、大小の臣工に恭しく力を合わせて治を図り、権勢で押し合い朋党で傾け合うことのないよう改めて命じられれば、風俗は正される。
  • 第二に、広く容れて言路を開くこと。陛下の臨御の初め、顔を犯して諫める臣は先朝より盛んであった。その言に激し過ぎたところがあったとしても、放逐が長く続けば悔悟も深まる。過去を宥して順次登用し、死んだ者は恤むべきである。あわせて大小の臣工に時政を直言させ、忠義の気を奮い立たせるべきである。
  • 第三に、挙動を慎んで大体を保つこと。国を立てる者は大臣を敬い旧臣を見捨てない。任が重ければ礼も優遇されるべきなのに、今は急に退けたかと思えば急に召し、はなはだしきは三木(枷や桎梏)をかけ笞に打たせる。これでは臣節を励ますことができない。陛下が試された末に、その人が本当に取るに足らぬなら礼をもって退かせるべきであり、平素の行いに欠けるところが無いのに一時の喜怒で扱いを覆されるなら、陛下は無心のつもりでも天下は陛下の心中を推し量ることになる。
  • さらに、張延齡は寵を恃んで非道を行い、法として容れがたいが、長老の言を側聞するに、孝宗の時にこれを厚遇し過ぎたことが今日の禍を醸したのだという、腐鼠のごとき身は深く惜しむに足らぬが、孝宗の在天の霊、太皇太后の老境を思えば、自らの骨肉すら庇えぬというのは情において忍びない、陛下が両宮を孝養される上でも心を動かされずにはおられまい、と述べた。
  • 最後に、近ごろ神御閣を新造し□宮(底本欠字)を開くにあたり、特に大臣に監督させておられるが、南京の太廟が焼けたばかりで、工役の急務としてこれに勝るものはない、近年は造営が続き四方は疲弊し、まさに切り詰めて余りに充てるべき時であるから、緩急を量って徐々に進めるのが宜しい、これらはみな実をもって天に応える道である、と結んだ。
  • 疏が入ると帝は激怒し、世龍が上を誹り逆臣を庇ったとして、械につないで京へ送り詔獄に下して拷問し、判決ののち改めて廷杖八十を加え、庶民に落とした。
  • 張延齡は昭聖太后の弟である。帝はどうしても殺そうとしていたので、世龍は重く罪を得たのである。二年後、大悪人の劉東山の告発により刑曹の郎中らが軒並み斥けられ、羅虞臣・徐申らが罰せられたのも、なお延齡の件によるものであった。
  • 世龍は家居すること五十年、親を養う分を除けば一品の肉のほかは終身粗食であった。没した日、族人が衣冠を調えて葬った。

徐申――提牢主事として連座

  • 徐申は字を周翰といい、崑山の人。嘉靖初に郷挙から蘄水知縣に任じられ、上饒知縣に移り、召されて刑部主事となった。
  • 延齡が獄につながれたとき、申は尚書の聶賢・唐龍に上申し、太后は高齢であり、延齡が朝夕に処刑されては太后の心をどう慰めるのか、議貴・議親の例を援いて帝に請うべきだと述べ、賢らも深くこれに賛同したので、獄は長く決しなかった。
  • はじめ延齡が下獄したとき、提牢主事の沈椿は獄舎に入れず別所に置き、後任者はさらに寛く扱って、桎梏を外し家人の出入りを許した。
  • そこへ大悪人の劉東山も獄につながれ、延齡に不軌の謀ありと上告した。東山は前の主事羅虞臣に笞打たれた恨みから、椿らのことも併せて訐告した。
  • 帝は激怒し、前後の提牢主事三十七人を捕らえて詔獄に付し拷問させた。申もその中にいた。判決では贖金を納めて復職とされるはずだったが、帝は廷杖を命じ、全員を外任に落とし、虞臣は庶民に斥けた。
  • 虞臣は廣東順德の人。吏部主事を歴任し、剛直で悪を憎んだ。帰郷後は山中に廬を結んで読書し著述したが、わずか三十五歳で没した。
  • 申は左遷後に赴任せず帰郷し、同郷の魏校・方鳳らとゆったり交わって詩歌を楽しみ、久しくして没した。
  • 曾孫の應聘は字を伯衡といい、若くして才名があった。萬曆十一年(1583年)の進士で、庶吉士に改められ檢討に任じられた。萬曆二十一年(1593年)の京察で流言に中り左遷されることになると、衣を払って帰郷した。座主の沈一貫が国政を執っていた頃たびたび招いたが出ず、家居すること十余年、ようやく行人司副として起用され、尚寶司丞に遷り、再び遷って太僕少卿となり、在官のまま没した。