出自と王守仁への入門
- 薛侃は字を尚謙といい、揭陽の人。性は至って孝であった。正德十二年(1517年)に進士となったが、ただちに親の侍養のために帰郷した。
- 贛州で王守仁に師事し、帰って兄の助教俊に語ると、俊は大いに喜び、宗鎧ら子姪たちを率いて学ばせた。これ以降、王氏の学は嶺南に盛んに行われるようになった。
- 世宗が立つと、侃は行人に任じられた。母の訃報に接すると五日間気を失うほど嘆き、ようやく粥を口にした。
- 嘉靖七年(1528年)に旧官に復した。守仁の死を聞くと、歐陽徳らとともに位牌を設けて朝夕に哭した。
- 当時ちょうど文廟の祀典が議されており、侃は陸九淵と陳獻章を祀るよう請い、九淵については裁可を得た。
皇嗣をめぐる上疏と彭澤の罠
- 侃は司正に進み、嘉靖十年(1531年)秋に上疏した。祖宗は子弟を分封しても必ず一人を京師に留め、香を司らせ、事あるときは留守し、あるいは代わって祭饗を行わせた、歴代の聖主がこれを改めなかったのに、正德の初め、逆臣の劉瑾が二心を懐いて封地へ赴かせるようにした、旧典に照らし、親藩の賢者を選んで京師に居らせ、正しい人を慎重に選んで輔導させ、他日の皇嗣の誕生を待つべきである、これは宗社の大計である、と説いた。
- 帝はちょうど嗣を祈っており、この件に触れられるのを忌んでいたので激怒し、ただちに下獄させて廷鞫し、糸を引いた者を追及させた。
- 南海の彭澤は吏部郎で行いが正しくなく、礼の議で張孚敬に付いてその腹心となった。のちに京察で黜けられたが、孚敬が奏請して留め、さらに引き立てて諭徳とし太常卿にまで至らせた。
- 侃が疏の草稿を澤に見せたところ、澤は、侃および少詹事の夏言と同年の生であり、言は当時しばしば孚敬に忤らっていたので、澤はひそかに、儲副(皇太子)の事は帝の忌諱に触れて必ず大獄になる、言を同謀だと誣えれば禍を負わせられる、と計算した。
- 澤は侃の草稿を孚敬に見せたうえで、侃には「張公は大いに善しと称えておられる、これは国家の大事だから中から助けよう」と偽って報せ、期日を決めて提出を促した。孚敬は先んじて侃の草稿を録して提出し、これは夏言から出たものだと言って、疏が届くまで発表を控えるよう請い、帝は許した。
- 侃は躊躇したが、澤がしきりに催促するので提出した。拷問は極まったが、侃はひたすら自分一人の仕業だと言い張り、幾日も判決が定まらなかった。
- 澤が夏言を引き込ませようと仕向けると、侃は目を怒らせ、「疏は自分で作った、提出を促したのはお前だ。お前が張少傅が助けてくれると言ったのだ。言に何の関わりがある」と言った。
- 給事中の孫應奎・曹汴が孚敬に会釈して避けたところ、孚敬は怒り、應奎らはその一件を上疏した。詔によって夏言・應奎・汴もともに詔獄に下され、郭勛・翟鑾および司禮監の中官に命じて廷臣とともに再訊させたところ、実情がすべて明らかになった。
- 帝はそこで言らを釈放し、孚敬の密疏二通を廷臣に示してその猜疑と欺きを斥け、致仕させた。侃は庶民とされ、澤は大同へ流された。澤は在朝中ひたすら邪佞に媚びていたので、失脚したとき天下はこれを快とした。
- 侃は潞河に至ったとき聖寿節に当たり、香を焚いてつつしんで祝った。ある者が参政の項喬に「小舟の中に庶民の服で聖寿を祝っている者がいる」と報せると、喬は「きっと薛中離だ」と言い、跡を追うと果たしてそうだった。中離とは侃の自号である。
- 帰郷後はいよいよ学に励み、従学する者が百余人に及んだ。隆慶初(1567年〜)に官を復され、御史を贈られた。俊の子の宗鎧には別に伝がある。
喻希禮・石金――皇嗣をめぐる建言と流謫
- 侃が帰って数か月後、御史の喻希禮と石金がいずれも皇嗣に関する発言で罪を得た。
- 希禮は、陛下が嗣を祈る礼を終えられると瑞雪が降った、和を招き祥を致す道はこれに尽きるものではない、先には大赦があり今年は刑を免じて臣民はあまねく恩沢に浴したが、ひとり礼を議し獄を議して罪を得た諸臣だけが遠く辺境に戍っている、近い土地へ移すか、特に赦免を賜れば、和気が立ちのぼり太子の星も自ずと輝こう、と述べた。帝は大いに怒り、「朕が諸臣を罪したから嗣が遅れているというのか」と言い、担当官に議して報告させた。
- 議が上がらぬうちに金もまた上言した。陛下は一日に万機を処理して労苦されているが、心を虚しく保って物事に順応するに如くはない、人材の用捨も政事の施行も、まず九卿が詳しく検討し、次いで内閣が諮り、中庸に合わないものは台諫の公論に付す、陛下はつつしみ黙して精神を凝らし、綱領を握るだけにされれば、精神は内に蓄えられ根本は充実し、多くの男子を得る慶事も期せずして訪れよう、と説いた。さらに、王守仁はまず逆藩(宸濠)を平らげ、続いて大賊を鎮めたのに、疑いと誹謗によってその功が抹消されている、大礼・大獄の諸臣は長く流竄に遭い、困窮鬱屈が久しく続いて物故した者も多い、守仁の功を録し諸臣の罪を寛くすれば、太和の気が宇宙に満ちよう、と述べた。
- 帝は不快とし、「金は朕に万機を執るなと言う。古の奸臣が君主に親政させぬよう導いた意である」と言い、あわせて調査して奏せよと命じた。尚書の夏言らが二人に他意はないと言うと、帝はいよいよ怒って二人を詔獄に下し、言らを責めて事情を述べ罪に伏させたうえで宥した。
- 二人は結局、辺衛へ謫戍された。長くして赦されて帰り、没した。隆慶初にともに光禄少卿を贈られた。
- 喻希禮は麻城の人、石金は黄梅の人。金は廣西を巡按して姚鏌と折り合わず、のちに守仁とともに盧蘇・王受を撫定した。台に還ったとき張璁・桂萼が権を握り、御史の儲良才らは争って付いたが、金だけは剛直で阿らず、それで名を得た。