出自と昭聖皇太后の朝賀をめぐる争い
- 朱淛は字を必東といい、莆田の人。郷試に第一で及第し、嘉靖二年(1523年)に進士となった。
- 翌年春、同縣の馬明衡とともに御史に任じられたが、一か月ほどで昭聖皇太后の誕辰に際し、命婦の朝賀を免ずるとの旨が出た。
- 淛は、皇太后は自ら神器を携えて陛下に授けた方で、母子の情は天日の照らすところである、朝賀を免ずると伝えては親の心を慰め孝治を隆んにする道にならない、と述べた。
- 明衡も、朝賀の一時免除は平常時なら可だが、礼を議して紛糾している時には不可である、先には興國太后の令節に儀式どおり朝賀したのに、数十日と離れぬうちに彼此で扱いが違えば、詔旨が出るや臣民は驚き疑う、万一礼儀の末節から嫌隙が生じ、陛下が天下の譏りを受けるようでは細事では済まない、と述べた。
- 当時、帝はしきりに生母を尊ぼうとし、群臣は帝の母は昭聖であるべきだと譲らず、相持したまま決着していなかった。二人の疏が入ると帝は憤怒し、即座に内廷へ捕らえ来たらせ、宮闈を離間し過ちを上に帰したと責めて詔獄に下し、拷問させた。
- 侍郎の何孟春、御史の蕭一中が救済を論じたが聴かれず、御史の陳逅・季本、員外郎の林應驄が続いて諫めると、帝はいよいよ怒って皆を詔獄に下し遠地へ流した。
- 帝は二人を殺すつもりで、顔色を変えて閣臣の蔣冕に「こやつらは朕を不孝と誣った、罪は死に当たる」と言った。冕は膝行して頓首し、陛下は今まさに堯舜の治を興そうとしておられるのに、なぜ諫臣を殺したという名を負われるのか、と請うた。しばらくして帝の顔色がやや和らぎ、戍にしようとしたが、冕はさらに固く請い、涙を流して願った。結局、杖八十を加え、除名して庶民とした。
- 二人はそのまま廃され、廷臣が幾度も推薦したが再び召されなかった。
- 淛は長者の人柄で、人を欺かず、人に欺かれても咎めなかった。明衡ともども貧しく、淛はことに甚だしかった。郷里の利害については必ず役人に意見を述べ、忤らうことがあっても顧みなかった。家居すること三十余年で没した。
馬明衡――閩中における王守仁の学の始まり
- 馬明衡は字を子萃という。父の思聰は宸濠の乱で死に、別に伝がある。
- 明衡は正德十二年(1517年)の進士で、太常博士に任じられ、御史になったばかりで淛とともに罪を得た。
- 閩中の学者はおおむね蔡清を宗としていたが、明衡だけが王守仁に学んだ。閩中に王氏の学があるのは明衡に始まる。
陳逅――救済に連座して左遷
- 陳逅は字を良會といい、常熟の人。正德六年(1511年)の進士。福清知縣を経て御史となった。
- 二人(朱淛・馬明衡)を救おうとして合浦主簿に左遷され、累進して河南副使となった。帝が承天に行幸した際、供応の準備が整わなかったため下獄され、庶民とされた。
林應驄――莊田の勘査をめぐる上言と左遷
- 林應驄も莆田の人で、明衡と同年の進士。戸部主事に任じられた。
- 嘉靖初、尚書の孫交が諸官の莊田を調査したところ、帝はその数値に食い違いがあるとして事情を問い詰める旨を下した。應驄は、部の上疏は臣が検分を担当したのだから誤りがあれば臣を罰すべきで、尚書は部の事を総べる身、すべてに目を通せるはずがない、この十日ほどの間に戸部・工部の尚書が相次いで陳弁を命じられるのは、賢者を尊び老臣を優遇する趣旨に反する、と述べた。疏が入ると俸を奪われた。
- 淛らを救おうとして徐聞縣丞に左遷され、長官に代わって朝覲した際、時事について上疏し、多くが議定のうえ施行された。