明史卷二百七 列傳第九十五 鄧繼曾

篇首の立伝者一覧

  • 鄧繼曾(劉最)
  • 朱淛(馬明衡・陳逅・林應驄)
  • 楊言
  • 劉安
  • 薛侃(喻希禮・石金)
  • 楊名(黄直)
  • 郭𢎞化
  • 劉世龍(徐申・羅虞臣)
  • 張選(黄正色)
  • 包節(弟の孝)
  • 謝廷□(底本欠字)
  • 王與齡(周鈇)
  • 楊思忠(樊深・淩儒・王時舉・方新)

出自と初期の建言

  • 鄧繼曾は字を士魯といい、資縣の人。正德十二年(1517年)の進士で、行人に任じられた。
  • 世宗の即位から四か月目、長雨が続いたのを機に上疏した。詔は出ても実行が滞り、大獄は判決が下っても処理が遅れ、勅旨が宦官の手から出て、佞臣が側近に取り入っている。礼は守られず孝は一方に偏り、諫言を聞き入れる姿勢はあっても実施は少ない。これは陛下が自らを修め賢者に親しむ誠意が当初より衰えたためで、天が長雨で戒めを示したのだ、と述べ、命令を出したら必ず守り、裁判を滞らせず、政事は輔臣に諮り、寵愛を側近に開かず、恩を割いて礼を定め、古を稽えて孝を尊べば、一念の転換で天災を消し天の戒めに応えられる、と説いた。
  • 間もなく兵科給事中に抜擢され、「杜漸保終」の四事を上奏した。一に君主の心の主宰を定めて惑わしの兆しを断つこと、二に両宮への孝養を均しくして嫌隙の兆しを断つこと、三に政令を一つにして欺き隠す兆しを断つこと、四に伝奉(正規手続きを経ない任官)を清めて仮託の兆しを断つこと。
  • また、興府(藩邸)から供奉してきた官を濫りに任じるべきでないと述べ、帝はこれを容れた。

嘉靖改元と大礼をめぐる災異の論

  • 嘉靖改元(1522年)、帝は生父母を帝・后として尊ぼうとした。折しも掖庭で火災があり、廷臣の多くは咎は大礼の議にあると述べた。
  • 繼曾も、昨年五月に日精門が焼け、今月二日に長安の榜廊が焼け、今また郊祀の日に内廷の小房が焼けたと挙げ、五行では火が礼を主り、五事では火が言を主る、名が正しくなければ言は順わず、言が順わなければ礼は興らない、一年も経たぬうちに火災が三度起きたのは礼を廃し言を失った結果だ、と論じた。
  • 提督三千營の廣寧伯劉佶が長く病んでいたので、繼曾はこれを論じて罷免させた。
  • 宣府・大同・關陝・廣西でたびたび警報があり、中原では盗賊が蜂起した。繼曾は戦守の方略および将を蓄え兵を練り食を足す計を陳べ、多くが議定のうえ施行された。

嘉靖三年の抗章と失脚

  • 嘉靖三年(1524年)、帝はしだいに大臣を疎んじ、政務をおおむね内廷で決するようになった。繼曾は抗議の上章をした。
  • その論旨は、近ごろの中旨は王言の体を大きく損ない、経文を考えず道理に合わない、邪説の諂いには勅を賜って褒め、師保の直言には放逐が及ぼうとしている、というもの。祖宗以来、批答は必ず内閣に付して案を進めさせたのは、独断の偏りを慮るだけでなく、偽って勅を騙る者を防ぐためである。正德の世でも弊は極まったが、今日ほど驚くべき嘆かわしいことはなかった。左右の小人どもは書も読まず事も経ていないのに、隙に乗じて権を招き筆を弄んで寵を取る、そのため出す言葉に根拠がない。陛下が大臣と政を共にせず小人を頼み信じれば、国家(大器)が安からぬことを恐れる、と述べた。
  • 疏が入ると帝は激怒し、詔獄に下して拷問させ、金壇縣丞に左遷した。給事中の張逵・韓楷・鄭一鵬、御史の林有孚・馬明衡・季本がみな救済を論じたが返答はなかった。
  • 繼曾は累進して徽州知府に至り、在職のまま没した。
  • 帝は即位当初こそ言路を大きく開き、進言者が切直に過ぎても寛大に容れていたが、劉最と繼曾が罪を得てからは言官を厭い遠ざけ、廃黜が相次いで、諫言を納れる気風は衰えた。

劉最――中官崔文の弾劾と流謫

  • 劉最は字を振廷といい、崇仁の人。繼曾と同年の進士で、慈利知縣から入って禮科給事中となった。
  • 世宗が議定の策(擁立の功)を大いに行って封爵しようとしたとき、最は上疏してこれを止めた。ついで、帝が聖学に努め、宮中で日々『大學衍義』を誦し、左右の近習に邪僻なことを勧めさせぬよう請うた。
  • 嘉靖二年(1523年)、中官の崔文が祈祷の事で帝を誘ったので、最はその非を極言し、あわせて文が国庫の金を浪費している実状を奏した。ところが帝は文の言に従い、最に横領額を自ら調べさせよと命じた。最は、帑銀は内府の所管で、計臣(戸部の長官)ですら増減を検査できない、文は実行できぬ事を課して自らの罪を逃れ、言官を抑えようとしているのだ、と述べた。疏は旨に忤らい、廣德州判官として出された。言官が救済を論じたが容れられなかった。
  • その後、東廠太監の苪景賢が、最は赴任の途中でなお旧官の肩書を用い、大きな舟に乗って夫役を徴発しており、巡鹽御史の黄國用がさらに牌(通行の割符)を出して送らせたと奏した。帝は怒って二人を逮捕し詔獄に下し、最を邵武へ充軍、國用を極辺の雑職に左遷した。法司と言官が救おうとすると、党を組んで庇い合うと責められた。
  • 最は戍所に長くいたが、やがて赦されて帰り、家居すること二十余年で没した。