明史卷二百六 列傳第九十四 魏良弼

彗星に託して張孚敬を弾劾する

  • 魏良弼は字を師説といい、新建の人。嘉靖二年(1523年)の進士で松陽知縣を授けられ、召されて刑科給事中を拝した。
  • 採木の侍郎である黄衷が事を終えて帰家し、致仕を乞うてまだ許されぬうちに、緝事の者が衷はひそかに京師に入ったと奏し、帝は怒って衷の職を奪った。良弼は、衷は大臣である、都に入ってどうして隠せよう、言った者の欺罔の罪を正されたい、と述べたが、報ぜられなかった。
  • 張璁・桂萼が初めて相を罷められ、詔でその党を察したとき、給事中の劉世揚らの議は良弼にも及んだが、吏部の言によって留まった。
  • まもなく京営の巡視を命ぜられ、提督五軍営の保定伯梁永福と太僕卿の曽直を弾劾して罷めさせ、武定侯郭勛の家奴を罪し、団営の兵政の弊を論じ、また銀と米を出して京師の饑を振うよう請うた。直言の声は大いに著れた。
  • おりしも南京御史の馬敡らが吏部尚書の王瓊を弾劾して逮えられ、良弼はその釈放を請うた。帝は怒ってあわせて詔獄に下し、贖を論じて職に還したものの、なお俸一年を奪った。
  • 三たび遷って禮科都給事中となった。十一年(1532年)八月、彗星が東井に見れ、芒の長さは一丈余であった。良弼は占書を引いて、彗星が晨に東方に見れるのは君臣が明を争う兆、彗孛が井に出るのは奸臣が側にある兆である、大學士の張孚敬は専横で威福を窃み、奸星の異を示すに至った、速やかに罷黜すべきである、と述べた。孚敬は良弼が私を挟んでいると奏した。帝は既に孚敬を疑っていたが、両方の疏ともに報聞にとどめた。給事中の秦鰲の疏が再び入り、孚敬はついに罷めて去った。
  • 一月余りののち、良弼はまた同官とともに吏部尚書の汪鋐を弾劾した。帝はちょうど鋐に心を寄せていたので良弼の俸を奪った。鋐と孚敬はともに良弼を恨んだ。
  • 翌年の元日、副都御史の王應鵬が事に坐して詔獄に下された。良弼は、年の初めに微かな過ちで大臣を繋ぐべきでない、と述べた。帝は怒って再び詔獄に下した。獄卒は訝しんで「公はまた来られたか」と言い、涙を垂れた。まもなく復職したが俸を奪われた。
  • 当時、孚敬はまた起って政を柄り、鋐とともに前の隙を晴らそうと、考察の後に科道官に互いに糾させた。奏し上げられたのは十一人であったが、また良弼には及ばなかった。孚敬はいよいよ怒り、旨を擬して切責し吏部に再考させた。鋐はそこで別に二十六人を糾したが、良弼および秦鰲・葉洪はみな以前に孚敬・鋐を弾劾した者であった。中外は大いに駭いた。良弼はついに不謹に坐して削籍された。隆慶の初め、詔で廃籍から起用され、年老のため家にいながら太常少卿を拝して致仕し、卒した。天啟の初め、忠簡と追諡された。

附伝: 葉洪・秦鰲・張寅

  • 葉洪は字を子源といい、徳州の人。嘉靖八年(1529年)の進士で戸科給事中を授けられた。十一年(1532年)、圜丘で祈穀の礼を初めて挙げたが帝が親祀しなかったので、洪は疏して諫めた。帝は洪の妄言を責めた。まもなく京営を巡視し、工科右給事中に進んだ。汪鋐が吏部尚書に遷ると、洪はその奸を極論し、旨に忤って俸を奪われた。翌年の考察で鋐は怨みを晴らし、洪を浮躁に坐して寧國縣丞に貶した。二年を経てさらに大計でその職を奪った。言者がしばしば冤を訟えたが復用されなかった。
  • 秦鰲は字を子元といい、崑山の人。嘉靖五年(1526年)の進士で行人を授けられ、兵科給事中に擢かれた。魏國公徐鵬舉と中官頼義の不法の状を弾劾し、義は罷められて還った。彗星が見れると、張孚敬が賢を妬み国を病め、詔旨を擬議しては引いて自分の手柄にしていると弾劾し、帝はついに孚敬を罷めた。のちに孚敬が再び相となると、汪鋐が風向きを承けて考察により鰲を東陽縣丞に謫した。しばしば遷って福建右参議となり、官に在って卒した。
  • また張寅という者がいる。太倉の人で、嘉靖の初めの進士、南京御史を歴した。かつて禮部侍郎の黄綰の十罪を弾劾した。張孚敬が政を罷められると、寅はその憸邪蠧政は悉く数えられぬとして、賜った封誥や銀章の類を追奪して明らかにその罪を正されたいと請い、あわせて左都御史の汪鋐の陰賊邪媚を弾劾した。帝は怒って髙唐判官に謫した。しばしば遷って南京文選郎中となり、おりしも宮僚を選ぶにあたって春坊右司直に改められ翰林院検討を兼ねたが、まもなく弾劾されて罷めた。

史論

  • 贊に曰う。『書』は「佞ならざる者が獄を折け、良き者のみが獄を折く、中ならざるは罔し」と言い、また「明らかに刑書を啓き、相ともに占って、みな中正ならんことを庶う」と言う。獄を折くには中を得なければならぬということである。
  • 張寅・李鑑の罪状は昭然としていたのに、郭勛・席書の説に中てられ、廷臣は罪を得て寅は職に還り鑑は死を宥された。陳洸の罪は百七十二条に至りながらついに死を免れ、それでもなお上書して冤を訟えた。洸の悪を攻めた者も洸の獄を治めた者も、逮捕は百数十人に及んだ。
  • いずれも議礼で衆の怒りに触れたのだという一言が帝の胸底に深く入ったためである。佞人の畏るべきことは甚だしい。そもそも成案を覆すのは明察に似、死罪から出してやるのは仁に似る。だがそれが口実を借りた報復であり、刑罰が中を失していることには気づかない。佞と良の弁は、審らかにせずにいられようか。