日食に託して璁の再任を諫める
- 卲經邦は字を仲徳といい、仁和の人。正徳十六年(1521年)の進士で工部主事を授けられた。荊州の税を榷ったが、わずか三か月で税額が満ちたので、関を開いて商船の往来に任せた。員外郎に進んだ。
- 嘉靖八年(1529年)冬十月、日食があった。経邦は当時刑部の官であり、疏を上げて述べた。この正陽の月に日食の異があった。小雅「十月之交」の篇に質せば、変象は符を懸けたように合っている。詩を説く者は、陰の壮んなることが甚だしいのは善人を用いないからで、その咎は専ら皇父に帰すという。ならば今、調和燮理の任にある者に皇父たる人はいないだろうか。近ごろ陛下は陸粲の言を納れて張璁・桂萼に致仕を命じられたが、まもなく璁が議礼に功ありとして再び召して輔政させられた。人の言は籍々としているのに陛下は恤みたまわない。天変がこの通りである以上、畏れずにいられようか。
- そもそも議礼と臨政とは同じでない。議礼は当を貴び、臨政は公を貴ぶ。皇考の徽称を正して父子の倫を明らかにしたのは礼として当を得ており、衆論を排して独見に任せても偏とはしない。しかし人を用い政を行うにあたっては、忠邪を弁別し財力を審らかに量り、天下の人とともに用いてこそ公である。今、陛下は璁が議礼に功があるからと、その人を察せずその才を揆らずに大任を加えられる。これでは議礼の臣を私するに似る。議礼の臣を私するのは、議したところを公けの礼としないことになる。そもそも礼はただ至公であってこそ万世不易である。もし私に近ければ、守ることもできようが変えることもできる。陛下が果たして尊親の典を至当として子孫に世々守らせようとお思いなら、諸臣の進退を一切至公に付し、その賚予を優にし終始を全うしてその議礼の功に答え、そのうえで広く海内の碩徳重望の賢を求めて正大光明の業を弼け成させるに如くはない。そうすれば人心は定まり天道は順い、万年ののちに廟号を世宗として子孫百世不遷とすることができる。偉ではないか。ただ非分の任を加えて盈ちたるを履み満ちたるを蹈ませ、天と人の怒りを犯させるのは、璁らにとっての福でもない、と。
- 帝は大いに怒り、ただちに鎮撫司に下して拷訊させた。獄が上って法司に送って罪を擬すよう請うたが、帝は、これは尋常の犯ではない、法司に下すには及ばぬ、と言った。そこで福建鎮海衛に謫戍された。
- 十六年(1537年)皇子が生まれて大赦があったが、経邦と豐熈ら八人だけは赦例に入らなかった。経邦は戍所で戸を閉じて読書し、熈および同じく戍された陳九川と時に討論した。鎮海に居ること三十七年で卒した。閩の人は寓賢祠を立てて三人を祀った。隆慶の初め、復官された。