明史卷二百六 列傳第九十四 唐樞

六疑を弁ずる上疏

  • 唐樞は字を惟中といい、歸安の人。嘉靖五年(1526年)の進士で刑部主事に任じられた。言官が李福達の獄によって郭勛を交々弾劾したが、獄辞の要領を得られずにいた。樞は疏を上げた。
  • 李福達の獄について陛下が再三駁して勘えさせられるのは、まことに古の帝王の欽恤の盛心である。しかし諸臣は陛下に背き、欺き蔽う者はその讒を恣にし、諂い諛う者はその説を混ぜ、威を畏れる者は辞を変え、探索する者は真を淆す。それゆえ陛下の惑いはいよいよ甚だしく、是非はついに明らかにならない。ひそかに思うに、陛下の疑いは六つある。謀反は罪が重いのだから疑いだけで軽々に加えるべきでないというのが一。天下には貌の似た人がいるというのが二。薛良の言は聴くに足りぬというのが三。李玨の初めの牒が明白だというのが四。臣下が党を立てて郭勛を傾けようとしているというのが五。崞・洛の証佐はみな讐人だというのが六。これを一つずつ弁じたい。
  • 第一。福達が出てのち、まず王良・李鉞が従ったのは何の意か。次いで惠慶・邵進禄らが師事したのは何を伝えたのか。李鐵漢の十月下旬の約束は何を求めたのか。「我に天分あり」の数語は何を謀ったのか。「太上元天垂文秘書」の辞は何を指すのか。庫を劫し城を攻め旗を張り爵を拝したことは進禄らの手で成ったが、その大もとは何に由来するのか。鉞は先に伏誅し、進禄は後に露見した。反状は甚だ明白である。だから陝西の人も殺すべしと言い、山西の人も殺すべしと言い、京畿には殺すべしと言わぬ者が一人もない。ただ左右の人だけが不可と言うが、これは臣の知るところではない。疑うに及ばぬ其の一。
  • 第二。福達の姿かたちは最も見分けやすい。頭の禿げで験を取り、郷音で証を弁ずる。李二・李俊・李三はその一族が見知っている。戚廣の妻の口から発いたのはその孫が見知っている。杜文柱がまず認めたのはその姻戚が見知っている。韓良相・李景全に質して証したのはその友が見知っている。髙尚節・王宗美に一たび言ったのは鄜州の主人が見知っている。卲繼美・宗自成に再び言ったのは洛川の主人が見知っている。石文舉らに三たび言ったのは山陝の道筋の人がみな見知っているということである。疑うに及ばぬ其の二。
  • 第三。薛良が悪を怙む善人でないのは確かだが、張寅が福達すなわち李午だという言には明らかな拠りどころがある。人によって言を廃すべきではない。まして福達は蹤跡が譎密で、黠慧は人に過ぎ、人はみなその術中に堕ちた。良が狡猾でなければその隠し事を発けなかったであろう。もともと発き摘み訐告する事は、敦良朴厚の人から出るものとは限らない。疑うべきでない其の三。
  • 第四。李玨は、薛良が善人でないのを見、李福達に龍虎の形の朱砂の字がないのを見、五臺縣の張子真の戸内に実際に張寅父子がいるのを見、崞縣の左廂都に李福達・李午の名がないのを見て、苟且に案を定め、元凶を軽く縦したのである。しかし五臺は嘉靖元年の黄冊からはじめて寅父子を収めている、忽然とどこから来たのか。粟を納めて官を拝したのは素封であり一日の蓄えではない、それ以前はどうして隠れ漏れていたのか。崞縣の在城坊に既に李伏答がいたのに、左廂都のほうを追察し、しかも李午を真名として本貫の所在を求めたところで得られるはずがない。軍籍に考証がないことなど拠るに足りない。まして福達に妖術があったのなら、龍虎の形の朱砂の字も、以前は仮りて衆を惑わし、後には消して罪を避けたのかもしれず、すべて薛良の誣とは言えない。疑うべきでない其の四。
  • 第五。京師に四方から来る者は一人の福達に限らない。名を張寅と改め、しかも衣冠も形貌も似ていたのだから、郭勛がそれを信じたのも理としてあり得る。妖賊の余党であることは意料の及ばぬところであった。勛には自ら負うべき過があるが、陛下が既に議礼を貴ぶ恩を宏くされている以上、諸臣に勛を傾ける心があったとして、どうして罪を加えられよう。疑いを用いぬ其の五。
  • 第六。獄を鞫する者が誣だと言うなら誣の因るところを言わねばならず、讐だと言うなら讐とする事情を言わねばならぬ。薛良が讐だと言うなら、その他一切の証佐は讐ではない。韓良相・戚廣が讐だと言うなら、髙尚節・屈孔・石文舉は讐ではない。魏㤗・劉永振が讐だと言うなら、今の布政・按察・府・県の官は讐ではない。山陝の人が讐だと言うなら、京師の道筋の人は讐ではない。疑いを用いぬ其の六。
  • 陛下が六つの疑いをことごとく釈き、福達の罪を明らかに正されるなら、群がる奸は跡を屏め、宗社の幸いである、と。
  • 疏が入ると帝は大いに怒り、為民に斥けた。その後『欽明大獄録』は樞の疏を削って載せなかった。
  • 樞は若くして湛若水に学び、深く造って実践した。また経世に留心し、九辺および越・蜀・滇・黔の険阻・阨塞は自ら歴めぬところがなく、草履を履き草を食んで、老いに至るまで衰えなかった。隆慶の初め復官し、年老のため秩を加えられて致仕した。おりしも髙拱が徐階を憾み、階が先朝の建言の諸臣を恤み録するのは先帝の過を彰らかにすることだとして、ことごとく停めるよう請うたため、樞はついに録されなかった。