明史卷二百六 列傳第九十四 鄭一鵬

内閣と斎醮を論ずる

  • 鄭一鵬は字を九萬といい、莆田の人。正徳十六年(1521年)の進士で庶吉士に改められ、嘉靖の初めに戸科左給事中に至った。性は伉直で、諫垣の中でもっとも敢えて言った。
  • 御史の曹嘉が大學士楊廷和を論じ、そのついでに内閣の権が重すぎると言った。一鵬はこれを駁して述べた。太宗がはじめて内閣を立て、解縉らを選んで政事を議し、漏刻が数十刻下るまで語り合ってようやく退いた。陛下が即位されて以来、大臣を宣召されたことが幾度あったか。張鋭・魏彬の獄も、獻帝追崇の議も、廷和らを召して面と向かって論じられたことはない。擬した旨も内で多く改められている。専らにしているとは言えない、と。
  • 帝が中官の崔文の言を用いて、乾清・坤寧の諸宮、西天・西番・漢経の諸廠、五花宮、両暖閣、東次閣に至るまで、どこにも醮を建てた。一鵬は述べた。禱祀がこれほど繁く興るのは必ず魏彬・張鋭の余党の仕業である。先帝は既に誤られた、陛下がさらに誤られてよいものか。臣が光禄を巡視したところ、一度の斎醮の蔬食の費用が銭一万八千であった。陛下は民の怨みを斂めることには忍びられて、佞倖の心を傷つけることには忍びられない。まして今は天災が頻りに降り、京師では道に飢え死ぬ者が相望み、辺境の戍卒は日夜戈を荷いながら飽食できずにいるのに、僧道のためにここまで糜費する。臣にはこれが解せない、と。報聞にとどまった。
  • 東廠理刑千戸の陶淳が法を曲げて人を殺し謫戍と論じられたのに、詔で覆案して帯俸に改擬された。一鵬は御史の李東らとともに執奏し、あわせて刑部侍郎の孟鳯を弾劾したが、帝は聴かなかった。
  • 給事中の鄧繼曽、修撰の吕柟、編修の鄒守益が言によって罪を得たときは、一鵬はいずれも疏して救った。

宮中の費と外夷の貢

  • 宮中の用度は日に日に侈り、天順の時の数倍になった。一鵬は述べた。今年は災で財用が窮し、往々にして太倉から借り支えているのに、清寧・仁夀・未央の諸宮には毎度余りが積まれ、おおむね戚里に饋られている。むしろ留めて光禄に供し母后の徳を彰らかにされるがよい、と。帝は乾清・坤寧の二宮の分を暫く十分の一減らすよう命じた。
  • 魯迷が獅子・西牛・西狗・西馬および珠玉の諸物を貢した。一鵬は漢が玉門関を閉じて西域を謝した故事を引き、辺臣に敕して量って賞賚を行い国に還らせ、京に入れないようにして、朝廷が遠方の物を宝としない盛徳を彰らかにされたいと請うたが、聴かれなかった。
  • まもなく闕に伏して大礼を争い、廷で杖たれた。
  • 侍郎の胡瓚と都督の魯綱が師を督して大同の叛卒を討ち、功状を列ねて上げ、文武大臣・台諫・部曹および各辺の撫按・鎮監に遍く賞を頒つよう請うた。一鵬は述べた。桂勇が郭鑑らを誅したのは瓚が到着する前のことであり、徐氊兒らの誅は朱振によるもので瓚には関わりがない。瓚は功を邀え賞を冒したいが衆口の非議を懼れ、そこであわせて叙して媚びようとしているのである。そもそも大同で難が構えられて以来、大臣・台諫の誰が陛下のために一策を画したというのか。孤城の窮寇にはなお逃げた者が多く、各辺の鎮撫は相去ること数千里、どうして掎角の勢をなせよう。瓚らの欺罔の罪を治められたい、と。賞はそこで行われなかった。
  • 当時、諸臣の進言は多く譴を受けたのに、一鵬は間々許可の旨を得たので、いよいよ発舒して言事した。楊宏を寧下の總兵官に推すべきでないこと、席書が費宏を訐しその弟の春を修撰に留めるべきでないこと、王憲は貴近に夤縁し鄧璋は甘肅で事を敗ったので三辺総督に挙げるべきでないこと、服喪を終えた尚書羅欽順が告を請うていること・祭酒魯鐸が謫されたこと・修撰吕柟のことについては召して経筵に至らせるべきこと、廷臣が省親や養病を乞うのを一概に許さぬべきでないこと。諸疏はみな侃々としていた。
  • おりしも武定侯の國勛が虎賁左衛の地を得て自邸を広げようとし、指揮の王琬らに、衛は湫隘で吏士を居らせるに足りぬと言わせ、民の郭順という者が自分の宅と取り替えたいと願い出た体にした。順は勛の家奴であり、その宅はさらに湫隘であった。一鵬は同官の張嵩とともに、勛が敝れた宅で公署を取り替えるのは驕縦罔上である、昔、竇憲が沁水の園を取り替えついに逆で誅されたが、勛が朝廷の武衛を奪おうと謀るのはその悪が憲の比ではない、部臣が勢に附いて曲げて従ったのも罪に坐すべきである、と弾劾した。尚書の趙璜らはそこで自ら弾劾し、詔で取り替えた地を還した。勛は深く恨んだ。
  • 一鵬がさらに李福達の獄で勛を弾劾すると、桂萼・張璁は妄奏の罪に坐して拷掠し除名した。九廟の災で言官が遺賢を会薦したとき一鵬にも及んだが、ついに召し戻されず、久しくして卒した。隆慶の初め、復官し光禄少卿を贈られた。