明史卷二百五 列傳第九十三 曹邦輔

字は子忠、定陶の人である曹邦輔。嘉靖十一年の進士で、清廉有能と称され、御史として總督張珩らの功績の偽りを弾劾した。河南副使のとき柘城の賊師尚詔の乱に当たり、退く兵の最後尾を斬って士卒を進ませ、四十餘日で十餘萬を殺した賊を殲滅した。應天巡撫としては倭を滸墅・太湖で破って六百餘人を捕斬したが、功を横取りできなかった趙文華に讒言され、朔州の守備に流された。隆慶元年に起用されて薊州・遼東・保定の軍務を總督し、辺の城壁より先に兵を練るべきだと説き、のち南京戸部尚書に至った。萬厯元年に致仕し、三年して没して太子少保を贈られた。官に在ること四十年、家に余財はなかった。

年表(6件)
  • 嘉靖十一年1532年進士に及第し、元城・南和の知縣を歴任して清廉有能と称される
  • 嘉靖三十四年1555年右僉都御史として應天を巡撫し、滸墅・陶宅・太湖の倭を破って六百餘人を捕斬する
  • 隆慶元年1567年楊博の推挙で起用され、左副都御史として院事を協理し、のち薊遼保定の軍務を總督する
  • 萬厯元年1573年勤務評定のため朝廷に赴き、病を理由に致仕する
  • 嘉靖二十三年1544年任環が進士に及第し、黄平・沙河・滑縣の知縣を歴任する
  • 嘉靖三十一年1552年閏三月、任環が寳山洋で賊を防ぎ、以後たびたび身に傷を負って戦う

出自と師尚詔の乱の平定

  • 曹邦輔は字を子忠といい、定陶の人。嘉靖十一年(1532年)の進士で、元城・南和の知縣を歴任し、清廉で有能と称された。御史に引き上げられて河東の鹽政を巡視し、陝西を巡按して總督張珩らの功績の偽りを弾劾し、いずれも辺地の守備に流された。湖廣副使として出て、のち河南に補された。
  • 柘城の賊師尚詔が反乱を起こして歸徳を陥れた。檢校董綸が民兵を率いて奮戦し、自ら数人の賊を斬ったが、妻の賈氏とともに死んだ。さらに柘城が陥ち、賊は舉人陳聞詩をさらって帥に立てようとした。陳聞詩が従わないので、従者を斬って脅した。陳聞詩は偽って「どうしても行かせたいなら、人を殺さず、火を放たぬこと」と言い、賊は承知した。担ぎ上げて馬に乗せたが、三日間食を絶ち、鹿邑に至って自ら縊れた。
  • 賊が太康を包囲し、都指揮尚乆紹が鄢陵で戦って敗れた。尚乆紹が霍山で賊を再び撃つと賊はこれを包囲し、兵は誰も進もうとしなかった。邦輔が最後尾の者を斬ると士卒は争って進み、賊は大いに崩れ、六百餘人を捕斬した。師尚詔は莘縣へ逃げて捕らえられた。
  • 賊が起こって四十餘日、府一つと縣八つを破り、殺戮は十餘萬に及んだ。邦輔はすばやく戦ってこれを殲滅した。詔して銀と幣を賜わり、山西右参政に引き上げられ、浙江按察使に移った。

倭寇との戦いと趙文華の讒言

  • 三十四年(1555年)、右僉都御史に任じられて應天を巡撫した。倭が柘林に集まり、その一党は紹興から流れて杭州・嚴州・徽州・寕國・大平を掠め、ついに南京を犯して溧水を破り、宜興に至った。官軍に迫られて滸墅へ逃げると、副總兵俞大猷・副使任環がしばしば迎え撃った。
  • 柘林の残賊はすでに陶宅に進み拠っていた。邦輔は副使王崇古を督して包囲させた。僉事董邦政・把總婁宇が協力して討ち、賊が太湖へ逃げると追いついて全滅させた。副將何卿の軍が崩れると邦輔は救援に向かい、火器で賊の舟を破った。前後で六百餘人を捕斬した。
  • 侍郎趙文華がその功を横取りしようとしたが、邦輔の勝報の上奏が先だったので、文華は大いに恨んだ。
  • その後、浙江巡按御史胡宗憲と合流して、邦輔は陶宅を攻めた。賊の諸営はいずれも崩れたが、賊が退いたところを邦輔が進んで攻め、再び敗れ、俸を奪われた。文華は邦輔が難所を避けて易しい相手を撃ち、軍の期日に遅れたと上奏し、總督楊宜もまた邦輔が故意に指令に違反したと上奏したが、給事中夏栻・孫濬が争ったので罪を免れた。
  • 文華は京に帰ると、残賊はまもなく尽きると奏したが、巡按御史周如斗がまた失態の実情を奏したので、帝は文華を疑うようになった。文華は「賊は滅ぼしやすいのに督撫が人を得ないため敗れるのです。臣が先に邦輔を論じたので、夏栻・孫濬が臣を陥れようとしている。東南の塗炭はいつ解けるのか」と述べた。そこで邦輔は逮捕・拘禁され、朔州の守備に流された。

復官と晩年

  • 隆慶元年(1567年)、楊博が吏部にあって邦輔を起用し、左副都御史として院事を協理させ、兵部右侍郎に進めて戎政を管掌させた。ほどなく左侍郎兼右僉都御史として薊州・遼東・保定の軍務を總督し、辺の城壁を修理するのは上策でなく、まず急いで兵を練るべきで、兵が練れてから辺の事は議せると述べた。
  • 給事中張鹵の言により召されて右都御史となり院事を掌った。帝は京營の事が重いとして、協理を「閲視」に改め、大臣で兵を知る者に委ねることとし、左都御史として召し還してこれに任じた。その後、㳟順侯吳継爵の言により、閲視をまた「提督」に改めた。
  • ほどなく南京戸部尚書に転じ、督倉主事張振選が規律に従わないと奏した。吏部はこれについて、近ごろ執政の者は人が自分に取り入るのを喜び、属吏はこれを後ろ盾として上官を陥れ、体を屈し意を下げて名分を倒錯させている、外にあっては巡按御史もまた庇い立てし、進士・推知・監司の賢愚がその口先で決まる、政を害することこれより甚だしいものはない、と述べた。穆宗はその言をもっともとし、張振選を退けて内外の諸司を戒めたが、ついに改まらなかった。
  • 邦輔はしばしば引退を願ったが許されなかった。萬厯元年(1573年)、勤務評定のため朝廷に赴き、また病を理由に辞任を求め、あわせて錫林阿に窺う志があるので慎んで防ぐべきだと述べ、そのまま致仕した。三年して没し、太子少保を贈られた。
  • 邦輔は清廉厳格で、吳中で逮捕された時、役所が蓄えていた俸給を差し出したが、手を振って断った。官に在ること四十年、家に余財はなかった。撫按がその実情を奏したので、詔して右評事劉叔龍を遣り墓を造らせた。

任環

  • 任環は字を應乾といい、長治の人。嘉靖二十三年(1544年)の進士で、黄平・沙河・滑縣の知縣を歴任していずれも有能の名があり、蘇州同知に移った。倭の害が起こると、長吏たちは軍事に不慣れであったが、環は気概があり一人でこれを引き受けた。
  • 三十一年(1552年)閏三月、寳山洋で賊を防ぎ、小校張治が戦死した。環は奮って前に出て賊を縛り、数日にらみ合い、賊は逃げ去った。ほどなく賊が太倉を犯すと環は馳せつけ、賊に遭遇して短兵で接し、身に三か所の傷を受けてほとんど死にかけた。料理人が環を庇って身代わりに死に、賊も引き上げた。
  • その後また賊が来ると、傷に包帯を巻いたまま海に出て撃った。荒波が立って舟を操る者は顔色を失ったが、環の気概はいよいよ盛んで、ついに賊を破り、百餘人を捕斬した。さらに隂沙・寳山・南沙で連戦していずれも勝った。按察僉事に引き上げられ、蘇州・松江二府の兵備を整えた。
  • 倭は略奪に飽きてみな帰ったが、南沙の三百人だけは舟が壊れて去れなかった。環は總兵官湯克寛とともに兵を並べて数か月守ったが、賊が大挙して来て古参の倭と合流し、華亭・上海を掠めた。環らは弾劾されたが赦された。
  • 翌年、賊が蘇州を犯し、城門が閉ざされて郷民が城を巡って泣き叫ぶと、環はすべて受け入れ、数萬人の命を救った。副將解明道が撃退し、前後の功を論じて環は右参政に進んだ。
  • 賊が常熟を掠めると、環は知縣王鉄を率いてその巣を破り、舟二十七艘を焼いた。ほどなく賊が陸涇壩を掠め、都督周于徳が敗れると、環は總兵官俞大猷とともに撃破し、舟三十餘艘を焼いた。賊が吳江を犯すと、環と大猷は鶯脰湖で撃破し、賊は嘉興へ逃げた。ほどなく三板沙の賊が民の舟を奪って海へ出ると、環と大猷は馬蹟山で襲って破った。その別隊で嘉定に屯していた者は火で焼いてみな死なせた。功を論じて子一人に副千户を廕せられた。
  • 母の喪に服していたところを召し出された。賊が新場に屯すると、環は都司李經らとともに永順・保靖の兵を率いて攻めたが伏兵に遭い、保靖の土舎彭翅らが皆死んだ。環は俸を止められ罪を負ったまま職に留まった。賊が平らぐと喪を全うすることを願い、許された。二年余りして没し、年四十。
  • 給事中徐師曾がその功を称え、詔して光禄卿を贈り、重ねて子一人に副千户を廕せ、蘇州に祠を建てて春秋に祭らせた。
  • 環は軍中で士卒と寝食をともにし、賜わったものはすべて分け与えた。軍事が急なときは終夜野宿し、数日食を絶つこともあった。かつて手足に自分の姓名を書いて「戦死は当然のこと。先祖から受けた体だから、いつか誰かが葬ってくれよう」と言った。将士は皆感激し、そのため向かうところ功があった。

吳成噐

  • 当時、休寕の吳成噐は小吏から㑹稽典史となった。倭三百餘人が㑹稽を劫掠し、官軍に追われて龕山に登ると、成噐は遮り撃ってことごとく殺した。ほどなくまた曹蛾江で賊を破り、浙江布政司經歴に引き上げられた。喪に遭ったが總督胡宗憲が奏して留任させ、紹興通判に引き上げられ、功を論じて二級進んだ。
  • 成噐は賊と大小数十戦していずれも勝ち、士卒に先んじて進み、進退に方略があり、部下は民から毫毛も奪わなかった。士民はその戦った場所に祠を建てて祀った。