明史卷二百四 列傳第九十一 楊選

大同右衛の囲みを解く

  • 楊選、字は以公、章邱の人。嘉靖二十三年(1544年)の進士で、行人に任じられ、御史に抜擢され、易州兵備副使に遷った。
  • アルタンが大同の右衛を囲み、巡撫の朱笈が逮捕されると、飛び越えて右僉都御史に任じられて代わり、侍郎の江東、總兵官の張承勛とともにその囲みを解いた。喪で帰り、ふたたび元の職に起用された。
  • 四十年(1561年)、薊遼を総督する副都御史に抜擢され、辺疆のはなはだしい弊害十五事を条上し、その請いの多くが容れられた。居庸の岔道で敵を退けた功で兵部右侍郎に進んだ。

図罕父子の人質と壬戌の入寇

  • 翌年五月、古北口の守将が偵察の兵を塞外へ出したところ、朶顔衛がその四人を掠めた。部長の圖罕が関に来て賞を求めると、副總兵の胡鎮がこれを捕らえ、あわせてその一党十余人を縛った。圖罕の子は恐れて、捕らえていた偵察の兵を城壁の下へ連れてきて父との交換を求めた。
  • 圖罕はシリンア(錫林阿)の妻の義父である。楊選はこれを使ってシリンアを牽制しようとし、その子を人質に入れることを条件として父を返した。それ以来、諸子が交替で人質となったが、半年で楊選は交替した。楊選は急ぎ上疏して報告し、みずからの方略を誇り、楊選と巡撫の徐紳らは賞を受けた。
  • 十月丁卯、シリンアとバートルらが大挙して牆子嶺・磨刀峪から城壁を破って侵入した。京師は戒厳となり、帝は大いに驚いて閣臣の徐階に諭して言った。朕は東に火の光を見た。この賊は京を去ること遠くない。兵部に命じて諸軍に力を合わせて討ち逐わせよ、と。
  • 翌日、楊選は寇が東へ逃げたと報告し、将士のために賞を求めた。帝は疑って徐階に尋ねた。徐階は「寇の営はまだ平谷にあり、楊選らは通州へ行っております。追撃したというのは偽りです」と答えた。帝はこれを恨んだ。
  • 寇はやや東へ動いて三河・順義を大いに掠め、諸将の傅津らを鄭官屯に囲んだ。楊選は副將の胡鎮を遣わし、總兵官の孫臏、遊撃の趙溱とともに撃たせたが、孫臏と趙溱は戦死し、胡鎮は力戦して脱出した。
  • 寇が内地に八日留まって退かないので、給事中の李瑜がそこで楊選・徐紳および副使の盧鎰、參將の馮詔・胡粲、遊撃の嚴瞻らを弾劾し、みな逮捕して詔獄に下した。さらに二日して寇はようやく北へ去り、京師の戒厳は解かれた。

処刑

  • はじめ間諜が、寇は牆子嶺をうかがうだろうと言い、兵部が檄を飛ばして厳重に待ち受けさせたが、寇の道案内をしていた三衛の者が楊選を欺いて潘家口へ向かわせ、その隙に寇が入った。楊選と徐紳は罪を得るのを恐れ、まっすぐ都城へ向かって東直門外に屯し、すぐに通州へ戻った。胡鎮らを遣わして防がせたが、それも勝てなかった。
  • 家が薊西にある内侍たちが、圖罕父子こそ寇を招いたのだと騒ぎ立て、帝はその言を容れていよいよ怒った。法司は楊選と徐紳を「守備を設けなかった」律に問うて斬とし、盧鎰らを戍役とした。帝は錦衣の朱希孝に諭して、圖罕を放って賊を手引きさせた罪に当てさせ、ふたたび楊選を詔獄に下した。楊選は認めず、圖罕父子を人質に取った件だけを認め、しかもその事はすでに上聞していると述べた。朱希孝はその言葉を記録して刑部に上げ、帝の趣旨どおり楊選を死罪と論じ、ただちに市で処刑して、その首を辺境にさらして示し、妻子は二千里の流罪とした。徐紳は死罪と論じられて獄に繋がれ、詔によって盧鎰らは辺境に戍った。
  • 帝は楊選にひどく怒ってはいたが、その身を誅するだけのつもりだった。法司があわせてその妻子まで連坐させたので、隆慶の初めになってようやく釈放されて帰った。

史論

  • 賛に言う。世宗は威権をみずから操り、重い刑罰を用いて臣下を縛ったが、権を弄する者はそれを利用して私を行った。そのため無能で職務を放り出す輩は事が露見して罪に伏したが、力を尽くして事に当たった臣もまた危うい法に当てられて誅された。辺臣は思うところを展べられず、武備は崩れた。陳九疇・翟鵬・孫繼魯・曾銑はみな用いるに足る才でありながら、ある者は流され、ある者は死んだが、いずれもその罪によるものではない。曾銑の河套回復の議はきわめて雄大だったが、無能な臣が政権の枢要にあり、敵の勢いはまさに強かったのだから、廉頗や李牧であっても成し遂げようがなかった。丁汝䕫が誅されたのは法としてはまことに過ぎたことではないが、軍律の弛緩には来歴があるのに、丁汝䕫だけがその咎を負った。王忬と楊選は辺の備えにはなはだ疎かったので、免れなかったのも当然というべきである。