明史卷二百四 列傳第九十一 商大節

保定巡撫から京城の経略へ

  • 商大節、字は孟堅、鍾祥の人。嘉靖二年(1523年)の進士で、豐城知縣に任じられ、はじめて城を築き、領内の盗賊をほぼ捕り尽くした。兵科給事中に抜擢された。京察が終わったのち、あらためて科・道が互いに弾劾したときに罪を得て鹽城縣丞に貶された。
  • 三たび遷って刑部郎中、出て廣東僉事となり、海南の叛いた黎の巣を衝いて秩を増され金と絹を賜った。累進して山東按察使、右僉都御史に抜擢されて保定を巡撫し、あわせて紫荊の諸関を提督した。アルタンの内侵を憂え、上疏して根本を重んじ神京を守るよう請うた。四年いて召されて都察院の事を掌った。
  • はたしてアルタンが大挙して都城に迫った。詔によって城中の住民および各地から武挙を受けに来た者をすべて城壁に上らせて守らせ、商大節が五城の御史を率いてこれを統べることとされた。帑金五千両を出し、臨機に壮士を募らせた。たびたび軍民の急務を条上した。
  • 寇が退くと、あらためて民兵の管理を兼ね、京城の内外を経略するよう命じられた。訓練し士気を鼓舞して、軍容はきわめて盛んだった。右副都御史に抜擢され、経略は元のまま。募った民兵はすでに四千に達し、三等に分けて餉を支給し、上等は月に二石、以下は五斗ずつ減ずることを請い、帝はすぐに従った。

仇鸞との衝突と獄死

  • 仇鸞は大將軍として内外の兵馬をすべて統べており、商大節が独立した一軍を持ってその指揮を受けないのを憎み、困らせようとして、地を分けて守ることにし、京師の四郊を商大節に委ねるよう請うた。
  • 商大節は述べた。臣は京城を経略しているとはいえ、実際は重兵を擁して戦守の責めを専らにしている者ではない。京城四郊の利害は仇鸞が専断すべきものなのに、臣に当たらせようとしている。臣が統べているのは巡捕の軍だけであり、仇鸞がまた頻繁に調発するので、悪人が急に事を起こしたら誰が防ぐのか、と。その論はきわめて明晰だったが、帝はちょうど仇鸞を寵愛しており、その事を人に妨げさせたくなかったので、商大節が奸心を抱いて難を避けたと責め、ただちに詔獄に下した。
  • 法司は詔旨に迎合して商大節を斬に当てた。嚴嵩は、商大節にまことに罪はあるが法司の引いた律は当たっていない、どうか死を赦して極辺に戍らせてほしいと述べたが、これも聴かれなかった。三十年(1551年)四月のことである。
  • 翌年八月、仇鸞が死ぬと、商大節の旧部下の石鏜・孫九思ら数百人が闕下に伏して冤を訴え、上章は再度に及んだ。兵部侍郎の張時徹らも、商大節は逆臣の仇鸞に掣肘されて法に触れたのだから、群情に順って赦されたいと述べた。帝は怒って張時徹の秩を二つ削り、商大節は翌年ついに獄中で卒した。隆慶の初め、元の官に復し、兵部尚書を贈られ、諡は端愍。