趙府の祐椋との対立
- 王儀、字は克敬、文安の人。嘉靖二年(1523年)の進士。靈璧知縣に任じられ、有能さゆえに嘉定に移された。
- 七年(1528年)に御史に抜擢され、陝西を巡按した。秦府が民の産を豪奪していたのを、王儀はことごとく民に返させた。延綏が大飢饉のとき、朝廷が陝西布政使の胡忠を巡撫に命じたが、王儀は論じて罷めさせた。
- のち河南を巡按したとき、趙府の輔國將軍の祐椋が亡命者を集めて人を殺し略奪し、十余年に及んでも誰も告発できなかった。王儀は巡撫の吴山とともにこれを奏し、爵を奪って禁錮とした。
- たまたま王儀が出て蘇州知府となってわずか三か月、祐椋がひそかに都に入り、王儀の落ち度をかき集め、あわせて都御史の毛伯温が私怨で自分を罪に陥れたと告発し、そのうえ「臣はかつて醮を建てて皇嗣を祈ったが、知府の王天民に嘲笑された、あわせて審問してほしい」と述べた。帝は心中では祐椋の罪を知っていたが、醮を建てたという言葉を喜び、使者を遣わして再調査させ、王儀と毛伯温の任を解き、王天民を獄に下した。使者は、王儀の告発は誣ではないが、祐椋の罪は赦の前のことなので軽く処すべきだと奏した。帝はついに、祐椋が自分を慕ったことを憐れんでその爵を回復し、王儀の名を除いた。毛伯温・吴山・王天民もみな罪を得た。嘉靖の世を通じて誹謗や斎醮によって重い禍を受ける者が多かったのは、祐椋の告発に始まる。
- 王儀が蘇州を去るとき、士民は闕下に走って留任を乞うたが、帝は許さなかった。その後、推薦されて撫州知府に起用されると、蘇州の士民はまた闕下に走って王儀を返すよう乞い、それが再度に及んでも返答がなかった。帰って巡撫の侯位に訴え、侯位が奏聞して、帝はようやく許した。
蘇州の田賦整理と辺鎮での歴任
- 王儀は着任すると嘆じて言った。蘇州の賦は天下の十分の二にあたるのに、田の額が乱れて調べようがない。どうして賦を定められようか、と。そこで畝ごとに実測し、県ごとに帳簿を作らせ、八つの事項で田賦を定め、三つの条項で税課を精査した。徭役と雑辦もこれで均等になり、知府としての治績は第一とされた。
- 浙江副使に進み、蘇州・松江・常州・鎮江の兵備を整えた。当時、巡撫の歐陽鐸が田賦を均していたので、王儀はこれを補佐し、蘇州で行った方式を近隣の郡にも広めた。
- 操江の王學夔とともに賊を討って敗れ、俸を停められ罪を負ったまま任にとどまったが、まもなく江中で賊を討ち滅ぼし、秩を一等進められた。
- 山西右參政に遷り、冀寧を分守した。敵が清源城に迫ったとき、王儀は城門を開け放ち、敵は疑って引き上げた。管轄を巡って城郭を築き糒糧を蓄えたので、榆次・平定のあいだにはみな城ができた。
- 二十一年(1542年)、右僉都御史に抜擢されて宣府を巡撫した。敵が龍門に入り、總兵官の郤永らがこれを破ると、王儀は右副都御史に進んだ。まもなく辺垣を築いた功で銀と絹を賜った。
- 敵が萬全右衛から入り、遊騎が完・唐を犯したので俸二級を奪われ、考察の際の拾遺で一官を貶された。さらに失事の罪が調査のうえ上申され、秩を初めのように貶された。
- 久しくして肅州兵備副使に任じられ、巡撫の楊博を助けてハミ(哈密)の遺民を境外に移した。やや遷って右參政、ふたたび右僉都御史に任じられて甘肅を巡撫することになったが、赴任前にアルタン(諳達)が京師を犯したので、詔によって急ぎ通州を鎮めた。仇鸞の部下の兵が民の財を掠めたので、捕らえて笞打ち、市の門外に枷でさらした。仇鸞が帝に訴え、逮捕・尋問のうえ庶民に落とされ、卒した。隆慶の初め、子の王緘が冤を訴えて復官し、恤典を賜った。
- 王緘は按察使として遼陽を分巡し、兵に明るいことで知られた。
王學夔――諫諍と鄖陽での処置
- 王學夔は安福の人。正徳年間、吏部主事として南巡を諫め、闕下に跪いて杖を受けた。
- 嘉靖の初め、外戚の待遇の削減を奏請し、また言官を救おうと申し立てた。考功郎中・文選郎中を歴任し、廉潔で慎重なことで当時に称された。
- かつて鄖陽を撫治したとき、皇子と偽称する者が現れ、諸司は兵を用いようと議したが、王學夔は「たわけた小僧にすぎぬ」と言い、密かに捕らえて処刑した。
- 累進して南京の吏部・禮部・兵部の三部尚書。隆慶・萬厯のあいだに二度、慰問を受けた。九十四歳で卒し、太子少保を贈られた。