明史卷二百三 列傳第九十一 曽鈞

弾劾の直声と河道の総理

  • 曾鈞、字は廷和、進賢の人。嘉靖十一年(1532年)の進士。行人に任じられ、南京禮科給事中に抜擢された。
  • 当時、各地の銀山は採算が取れず、しかも盗賊の巣となっていたので、曾鈞は上奏して廃止させた。
  • 曾鈞は剛直・廉潔で俗を憎み、まず參賛尚書の劉龍を弾劾して罷めさせ、次いで翊國公の郭勛、禮部尚書の嚴嵩を弾劾し、まもなく工部侍郎の蔣淦、延綏巡撫の趙錦を弾劾し、最後に操江都御史の柴經を弾劾して罷めさせた。その直言の評判は一時に鳴り響いた。
  • 出て雲南副使となった。両司(布政使司・按察使司)は黔國公のもとへ出向いて一同で謁見するのが常だったが、曾鈞ははじめてその礼を正し、あわせて侵していた麗江の民の土地を返させた。四川參政に遷り、黔の賊の乱を慰撫して定めた。たびたび遷って河南左布政使。
  • 三十一年(1552年)、右副都御史として河道を総理した。徐州・邳州など十七州県が続けて水害を受け、帝が憂えて方策の上申を促した。曾鈞は、劉伶臺から赤宴廟まで八十里を浚え、草灣を築き、老黄河の口と高家堰の長堤をかさ上げし、新莊などの旧い水門を修繕することを請うた。数か月で工事は成り、工部右侍郎に進み、四年にわたって河を治めた。
  • 入って南京刑部右侍郎となり、久しくして帰郷を願い出、家に十余年いて卒した。刑部尚書を贈られ、諡は恭肅。

史論

  • 賛に言う。鄭岳らは官にあってつねに気骨を示し、君主の過失を戒め、側近の寵臣を抑え、その始めから終わりまで見るべきものがあった。職務に精励し、赴く先々で治績と実務の手腕で知られ、まず列卿のうちの良臣というべきであろう。唐胄の安南をめぐる議論は事の道理に切実であり、歐陽鐸の田賦の均等化は恵みが民に及んだ。もし長くその任にあらしめたなら、周忱に比べうるほどであった。