言官としての直声
- 陳察、字は元習、常熟の人。𢎞治十五年(1502年)の進士で、南昌推官に任じられた。正徳の初め、南京御史に抜擢され、まもなく北京に移った。
- 劉瑾が誅されてもなお武宗が日々小人と狎れていたので、陳察は同官とともに、講学に努め、嗜欲を節し、朝政に勤めるよう請い、その言葉はきわめて切直だった。親の養いのために帰郷し、家に九年いてはじめて補任に赴いた。
- ちょうど帝が宸濠を親征しようとしていたので、陳察は行かずに急いで罪己の詔を下すよう請い、詔旨に触れて一年分の俸を奪われた。群臣にはさらに諫めれば極刑に処すと諭された。
- まもなく雲南を巡按し、巡撫の何孟春を助けて彌勒州を討ち定め、功によって秩を加えられた。
- 世宗が即位すると上疏し、金齒・騰衝は極辺の地で、すでに巡撫・總兵が統べ、さらに監司・守備が分轄しているのだから、鎮守の宦官は無用だと述べ、太監の劉玉と都督の沐崧の罪を弾劾した。詔によって二人とも罷免され召還された。
- 嘉靖の初め、四川を按じて鎮守の宦官の廃止を請うたが聴かれなかった。
- 帝がみずから楊言を鞫問して指を一本落としたとき、陳察は大声で「臣はこの不肖の身をもって楊言の命に代えたい。楊言ひとりを死なせるに忍びない」と叫んだ。帝が睨みつけても陳察は動じなかった。退いて疏を具えて弁明し、あわせて王邦竒を獄に下すよう請うた。その直言の評判は朝野を震わせた。
- 京營を巡視し、給事中の王科とともに武定侯の郭勛の貪欲と横暴を極言した。南京太僕少卿に抜擢されると、上疏して辞退し、あわせて前給事中の劉世賢ら二十余人を召し戻すよう請うた。帝は怒って、恩を売り名を求めるものだと責め、遠方の雑職に貶した。給事中の王俊民・鄭一鵬が救おうと論じたが、いずれも俸を奪われた。
- 陳察は海陽教諭に補され、累進して山西左布政使、入って光禄卿。十二年(1533年)、僉都御史として南贛を巡撫した。二年いて退職を願い出、その際に前都御史の萬鏜、大理卿の董天錫ら十四人が用いるに足ると推薦した。吏部がその言に従うよう請うと、帝は吏部の臣の俸を奪い、陳察を私情で妄りに人を挙げたと責めて庶民とした。
- 陳察は官にあって廉潔で、帰ってからは粗末な衣と粗食があるばかりだった。