明史卷二百三 列傳第九十一 朱裳

御史としての直言と河道の総理

  • 朱裳、字は公垂、沙河の人。十四歳で諸生となり、学舎で書を読みながら自分で炊事をした。提學御史の顧潜が崔銑のもとで学ばせた。正徳九年(1514年)の進士に及第し、御史に抜擢された。
  • 河南で塩政を巡按したとき、錢寧が人を遣わして塩の利を貪ろうとしたが、朱裳は禁じて与えなかった。
  • 山東を巡按したとき、前任の御史の王相が鎮守の宦官の黎鑑に逆らい、誣告されて詔獄に下されていた。朱裳は抗議の上疏で王相の潔白を訴え、黎鑑の八つの罪を弾劾した。
  • 帝が宣府から帰ると、朱裳は罪己の詔を下し庶政を刷新して人心をつなぐよう請うたが、返答はなかった。
  • 山東が大水で城武・単の二城が水に浸かると、朱裳の言によって土地を選んで築き直すよう命じられた。
  • 帝が長く南都に留まると、朱裳は小人が惑わす害を極言した。出て鞏昌知府となった。
  • 嘉靖二年(1523年)、治績が卓抜として推挙され、浙江副使に遷った。日々菜の羹をすすり、妻はみずから水汲みと臼引きをした。父を迎えて養ったとき、同僚がその貧しさを知って一揃いの衣を作って長寿の祝いとしたが、父もまた拒んで受けなかった。
  • 三たび遷って浙江左布政使、右副都御史として河道を総理し、たびたび方策を上申した。父の喪で帰り、長く起用されなかった。帝が南巡して行在に謁したとき、元の官のまま河道を総理するよう命じられ、章聖太后の梓宮を迎える途中、暑気を冒して卒した。隆慶年間に戸部右侍郎を追贈され、諡は端簡。