明史卷二百三 列傳第九十一 李中

番僧・佛寺を論ずる上疏

  • 李中、字は子庸、吉水の人。正徳九年(1514年)の進士。楊一清が吏部にあったときたびたび李中を召して言官の試験を受けさせようとしたが、応じなかった。工部主事に任じられた。
  • 武宗がみずから「大慶法王」と称し、西華門の内に寺を建てて番僧を住持とした。廷臣は誰も口に出せなかったが、李中は任官三か月で抗議の上疏を行った。
  • かつて逆賊の劉瑾が権を盗み勢いを振るったが、陛下は悟って赦さず誅した。その聖なる決断は卓絶であった。しかし今、大権はまだ収まらず、儲位(皇太子)は立たず、義子は廃されず、紀綱は日々弛み、風俗は日々壊れ、小人は日々進み、君子は日々退き、士気は日々萎え、言路は日々閉ざされ、名器は日々軽んじられ、賄賂は日々行われ、礼楽は日々廃れ、刑罰は日々濫となり、民の財は日々尽き、軍政は日々弊れている。劉瑾は誅されたのに、よい政治が一つも挙がらないのは、陛下が異端に惑わされているからである。
  • 禁中は厳かで奥深い場所であり、どうして異教が入り混じってよいのか。いま西華門の内に寺を建てて番僧を住まわせ、日々ともに過ごし、異なる言葉に日々染まって忠言は日々遠ざかり、任免は転倒し、処置は道に外れ、政務が廃れているのはそのためである。
  • どうか翻然と悔い改め、仏寺を毀ち、番僧を追い出し、儒臣を選んで朝夕に講義させ、大権を掌握して天下の奸を絶ち、儲位を立てて天下の本を立て、義子を廃して天下の名分を正されたい。そうすれば紀綱を振るい風俗を励まし、君子を進め小人を退けるといった諸事は順次成し遂げられる。
  • 帝は怒り、罪は測りがたいものになりかけたが、大臣の救いで免れた。翌日、中旨によって廣東の通衢驛丞に左遷された。
  • 王守仁が贛州を巡撫したとき、檄によって李中をその軍事に参与させ、宸濠の平定にも与った。

世宗朝の歴任と学問

  • 世宗が即位すると元の官に復したが、着任前に廣東僉事に抜擢され、さらに廣西提學副使に遷った。みずからの身をもって教えとし、諸生の優秀な者を選んで五經書院に集め、五日に一度は堂に登って講じ論難させた。
  • 三たび遷って廣東右布政使。総督および巡撫御史の意に逆らい、不称職として罷免されるところだったが、吏部の事を代行していた霍韜が、李中はもともと廉潔で節操があり才も人望もあるから留めるべきだと称した。ところが政府に李中を快く思わぬ者がおり、四川右參政に降された。
  • 十八年(1539年)、右僉都御史に抜擢されて山東を巡撫。凶作の年、蝗を捕らえた民には穀物を倍にして与え、蝗は絶えて飢えた者も救われた。大盗の關繼光を捕らえたが、隣境がその功を横取りしても李中は争わなかった。
  • 副都御史に進み南京の糧儲を総督した。御史の金燦が四川を按じていたころ李中を推薦したことがあったが、李中が礼を言わなかったので金燦は恨み、ここに至って他の事をかき集めて誣告し弾劾した。転任が議されているさなかに李中は卒した。光宗の時に莊介と追諡された。
  • 李中は官にあって廉潔だった。廣西から帰ったとき、客に食事を出そうとして隣家から米を借り、米が届くと今度は薪がなく、湯浴みの器で炊こうとしたが日が暮れ、ついに食事に間に合わぬまま別れたという。
  • 若いころ同郷の楊珠に学び、のちそれを拡げて、沈潜して奥深く緻密だったので、学ぶ者は谷平先生と称した。門人の羅洪先・王龜年・周子恭はみなその学を伝えた。

李楷――倭寇への備え

  • 李中の族人の李楷は、さらに羅洪先の学を伝えた。字は邦正。挙人から湯溪知縣に任じられ、母の喪に服し、服喪明けに青田の欠員を補った。
  • 当時、倭が東南を蹂躙していた。李楷は穀物を蓄えて防禦の資とした。青田にはもともと城がなく、倭が来ると李楷は沙埠で防いで渡らせず、その隙に城を築いた。倭がまた来ると城壁に登って守り、日々賊を数人ずつ殺したので、倭は逃げ去った。昌樂の知縣に移り、そこでも治績で聞こえた。