明史卷二百三 列傳第九十一 潘珍

地方官と安南征討への諫言

  • 潘珍、字は玉卿、婺源の人。𢎞治十五年(1502年)の進士。正徳年間に山東僉事を歴任して兖州を分巡した。賊の劉七らが不意に来襲したが、備えがあったので攻めずに去り、曲阜を掠めた。潘珍は県治を移して城を築くことを奏請した。福建副使、湖廣左布政使に遷った。
  • 嘉靖七年(1528年)、右副都御史として遼東を巡撫し、累進して兵部左侍郎。
  • 当時、安南の征討が議されると、潘珍は上疏して諫めた。陳暠も莫登庸もともに主君を弑した逆賊であり、黎寧はその父の黎譓とともに冊封を請わず入貢もしないまま二十年になる、大義に照らせばみな討つべきなのに、なぜ黎寧の請いにだけ従うのか。その地は郡県を置くに足らず、叛こうが服そうが中国とは関わりがない。いま北の敵は日ごとに増え、幕営は万里に連なり、烽火の警報はしばしば聞こえる。門前の防備を捨てて遠く瘴癘の地の蛮を事とするのは得策ではない。文武の才ある大臣を遣わして討伐を宣言し、檄を飛ばして莫登庸の罪を数え、脅されて従った者は赦し、あわせて黎寧に賊を討たせれば、父子は捕らえられなければ降るはずで、軍を労するには及ばない――と述べた。
  • 帝は潘珍が既定の方針を妨げたとして責め、職を剥奪して帰らせた。まもなく恩詔によって復官し、致仕した。
  • 潘珍は廉直で行いに節義があり、内外から十余度も推薦されたがいずれも沙汰やみとなった。卒して右都御史を贈られた。

潘旦――両廣総督としての安南反対論

  • 潘珍の族子の潘旦、字は希周。𢎞治十八年(1505年)の進士。漳州・邵武の知府となり、三たび遷って浙江左布政使。余剰の金を退けて受け取らなかった。
  • 嘉靖八年(1529年)、右副都御史に抜擢されて鄖陽を撫治し、たびたび大賊を平らげ、累進して刑部右侍郎。
  • 十五年(1536年)冬、兵部左侍郎として兩廣の軍務を提督した。詔によって毛伯温が喪中から起用されて安南討伐にあたることになり、潘旦は道すがら毛伯温の郷里を通ってこう言った。安南は門前の寇ではない、あなたは喪を終えることを理由に辞退すべきだ、往復の問い合わせで出兵の時期を少し緩めれば、彼らは命令を聞いて和議を求めてくる、そこで慰撫すれば万全であろう、と。
  • 潘旦が廣東に着いたところ、ちょうど安南の使者が来ていた。急ぎ上疏して、莫登庸が黎氏を簒奪したのは、黎氏が陳氏を簒奪したのと同じである、朝廷が問罪の師を起こそうとすると登庸はただちに入貢を求める使者を出した、これも天威を畏れているからである、臣らに情勢を観望させ、かの国が自ずと定まるのを待たせてほしい、登庸が上表して宝物を献ずれば中国の体面としては十分であって、どうして万里に兵を窮める必要があろうか、と述べた。
  • 上奏は礼部・兵部に下されたが、族父の潘珍がちょうど言論によって罪を得たところで、尚書の嚴嵩・張瓉は潘旦の議を退けて用いなかった。たまたま毛伯温が入京して潘旦の疏を見て不快とし、総督の任は重いから兵を知る者を選ぶべきだと言ったため、潘旦は南京兵部に改められ、張經が代わった。
  • 潘旦は赴任前に病と称して退官を願い出、その言葉が毛伯温を刺したため、帝は怒って強いて致仕させた。帰る際、吏が慣例として庫の金を旅費に支給すると告げると、潘旦は笑って「私は妄りに取ることを先例にはしない」と言った。卒して工部尚書を贈られた。

余光――安南をめぐる上言と失脚

  • 潘旦の上書から半年後、廣東巡按御史の余光もまた述べた。黎氏は国君を魚肉にした点で陳氏に対する賊子であり、中国に抗拒した点でわが朝に対する乱の首魁である、いま国を失ったのは、あるいは天が莫登庸の手を借りて報いたのかもしれない。宋以来、丁から李へ、李は陳に奪われ、陳は黎に簒われ、いま黎はまた莫に移った。黎氏を興そうとしても、勢いとして不可能である。臣はすでに官を遣わして入貢を修めるよう責めたが、道のりが遠く、往復して指示を仰いでいては必ず好機を失う。臣に臨機の処置を許してほしい――と。
  • 帝は、余光の疏中に五季・六朝の事を引いたことを咎めて兵部に下し、兵部は余光の軽率を咎めて俸を奪った。まもなく余光が郷試録を進呈すると、礼部尚書の嚴嵩がその誤りを摘発して奏し、余光は逮捕されて籍を削られた。余光は江寧の人。