出自と辺務十二事
- 胡松は字を汝茂といい、滁の人。幼くして学問を好み、かつて古の名臣の上奏を集め、奮い立って世に用いられる志を持った。嘉靖八年(1529年)の進士で、東平州を知り、方策を立てて盜賊を捕らえ民は安んじた。二度移って南京禮部郎中、山西提學副使を歴任した。
- 三十年(1551年)秋、辺務十二事を上申した。おもな内容は次のとおり。
- 昨秋、諳達が興・嵐を掠したとき、ただちに矢を回して兵を徴し期日を定めて深く侵入することを守臣たちはみな知悉していたのに、巡撫の史道、総兵官の王陛らは平素の備えがなく、境に迫ってからようやく朝貢を求めていると報告し、さらに密かに賄賂を送って自分の分担地を侵さぬよう頼み、禍を他の地域に転嫁しようとした。今の山西の禍は実は大同がもたらしたもので、速やかに重刑に処して諸鎮を戒めるべきである。
- 大同は兵変以来、壮士の多くが漠北へ逃れて寇に用いられている。今、招いて帰らせ、家畜や武具を携えて来る者にはその所有を認め、さらに牛と種子の費用を給し数年間の優遇免除を行えば、こちらは金十萬を投じて壮士二萬を得られる。撫して用いればみな精鋭である。棄てて強敵を利するのに比べてどうか。
- 大同は最も敵の要衝で、鎮巡となる者は諸辺のなかで特に難しい。今は資格にとらわれず精選し、俸禄を厚く与えて猛士を集め健丁を養わせ、任期を長くして十年経たねば交代させないことにすれば、彼は簡単に転出できないと知って一時しのぎの策を取らず、辺の守りは自ずと固まる。また法網をやや緩め、大きく法典を犯すのでなければ言官が軽々しく弾劾してその成功を壊さぬようにすべきである。
- 間諜を用いる道は兵家の重んじるところ。今、寇の間者で山西で捕らえた者だけで数十人、他鎮も同様で、我が方の虚実は相手に知られないところがない。今は死士を厚く養い密かに送り出し、隙があればその名王・部長や実権を握る貴人を斬らせ、そうでなくとも強弱虚実を窺って密かに備えるべきである。
- また寇は貪欲で利を好むから、こちらが金帛を惜しまず、東は黄毛三衛に贈ってその左を牽制し、西は伊伯格勒の遺種を取り込んで良地を与えその右をつなぎ、首尾を引き合わせて互いに警戒させれば、こちらは立ち上がってその疲弊に乗じ、坐して完勝を収められる。
- その他に条を分けて論じたところも、いずれも辺境の計画に切実なものだった。
- 帝はその忠誠を嘉して位を左參政に進めた。
失脚と再起、吏部尚書
- 松の上疏が出ると、当事者たちはすでにその越権を憎んでおり、昇進するに及んでますます忌み、兵権を与えず三関で用いさせて、それによって陥れようとした。寇が大挙して太原に至ると、給事中の馮良知は「松は建言によって賞を騙し取ったが寸功もない」と弾劾し、紀功の科道官である張堯年・王珩は総兵官の張達らを弾劾するとともに松を「空論で益がない」と論じ、ついに退けられて庶民とされた。
- 家に居ること十余年、しばしば推薦されたが取り上げられなかった。三十五年(1556年)に至り、趙文華の言により陜西參政に起用されて平涼を分守し、さらに保甲を厳しくし賦税を均しくし常平倉を置き屈強な者を選ぶなどの数事を条上した。
- 三度移って江西左布政使、右副都御史としてその地を巡撫した。管内に盜賊が多く、松は南昌・南豐・萬安の三営を置くことを奏し、将を派遣して討ち捕らえ次々に平定した。兵部右侍郎に進み巡撫はそのまま。廣東の大盜張璉を会同して討ち、また閩を援けて倭を破った功で二度銀と幣を賜った。
- 三年いて召されて部の事を処理し左侍郎に進み、吏部に改められ、南京兵部尚書に移って機務に参賛し、郭朴に代わって吏部尚書となった。奏して、「撫按の推挙・弾劾は毎回数十人を挙げるが、虚名や浮ついた言葉で往々にして実に合わない。弾劾する側も、贓罪を犯した者を僅かに降調に擬し、無能・貪残な者を僅かに教職への転出に擬すだけである。賞罰が当たらなければ人は何によって励まされよう。しかも巡撫は年末に例として属吏の賢否を等級づけるはずなのに、今はみな棚上げにされている。その欺き怠る者を戒められたい」と述べ、帝は嘉して容れた。
- 松は身を潔くして修養を好み、経術に富み、鬱然たる声望があった。晩年に銓衡を主宰し、埋もれた人材を引き上げることを自分の任としたが、わずか七か月で病没した。太子少保を贈られ、諡は恭肅。
績溪の胡松
- 同じころもう一人、胡松という者がいた。字は茂卿、績溪の人。正徳九年(1514年)の進士。嘉靖の時に御史となった。桂萼が王瓊を推薦したのを松が論じて旨に忤い、廉州推官に謫された。累進して工部尚書。
- 伊王が洛陽の邸宅を拡げようとし、その費用は十萬金と見積もられた。王は「十二」を嚴嵩に贈って必ず認めさせようとしたが、松は祖法に拠って争い、取り止めになった。
- 諳達が入寇し、仇鸞が辺境の兵を入衛させ、その全軍を召し寄せて京師を満たし、武庫の武器を営に移して支給に便にしようとした。松は「辺兵は外にあるべきものを内に置き、武庫の武器は内にあるべきものを外に出すことになる。肘腋の地を重んじ、兆しを塞ぎ防ぎを慎む道ではない」と述べ、押しとどめて許さなかった。ついで病を理由に帰り、卒した。年八十三。家にあっては孝友を称された。