明史卷二百二 列傳第九十 張永明

出自と諫官としての弾劾

  • 張永明は字を鍾誠といい、烏程の人。嘉靖十四年(1535年)の進士で、蕪湖知縣に任じられた。獻皇后の柩が南に合葬される際、通過する土地の費用は計り知れなかったが、永明は江岸の仏舎を白く塗って殿とし、供器は箔金で飾って財用を大いに省いた。
  • ついで南京刑科給事中に抜擢された。寇が大同・山西に入り、総督の樊繼祖、巡撫の史道・陳講らが防げなかったので、永明は同僚とともにその罪を論じた。また兵部尚書の張瓚が財貨をむさぼり国を誤ったことを弾劾し、また大學士の嚴嵩とその子の世蕃の貪汚の状を弾劾し、また兵部尚書の戴金が御史として塩を巡ったとき余塩の余剰銀を増やして辺境の計画を損なったことを弾劾した。上疏はすべては実行されなかったが、内外は永明を憚った。
  • 江西參議に出て、累進して雲南副使・山西左布政使。右副都御史として河南を巡撫した。伊王の典楧が横暴だったので永明はその悪事を暴き、のちについに罪に服した。

左都御史としての綱紀の整備

  • 四十年(1561年)、刑部右侍郎に移ったが着任前に吏部に改められ左侍郎に進み、ついで刑部尚書を拝した。数か月で左都御史に改められ、撫按を戒め励ます六事を条上した。
  • 御史の黄廷聘が浙江を巡按して帰る途中、湘潭で知縣の陳安を侮った。安がその荷物を開くと携えていた金銀・貨幣が出てきた。廷聘は恐れ入って詫び、安は返した。永明は聞いて廷聘を弾劾して罷めさせた。浙江參政の劉應箕は先に廷聘に論じられて罷められていたが、廷聘の失脚を見てその隠し事を拾い上げて自ら弁じたので、永明はこれを憎み、応箕も弾劾して斥けた。
  • 先例では、京官の考満は翰林を除きみな都察院に名を報せ庭謁の礼を行うことになっていたが、のち吏部の郎官が権を恃み、張濂が報名を廃し、陸光祖が庭謁を廃していた。永明は掲示を出して先例に従うよう命じ、儀節を列挙して奏聞し、詔して諸司に遵守させた。
  • 郎中の羅良が考満にあたり、先に永明の邸に来て報名と庭謁を免ずる約束をしてから院を通ろうとした。永明は怒り、「この礼は百年行われてきたもので、臣が加減できるものではない。良は軽薄で行状が悪く、罷めるべきである。また卿貳の大臣が考満で吏部に出向き堂官と面会したあと四司の門に行って司官に礼をすると、司官が南面して答礼するのも礼にかなわず、改めるべきである」と上疏した。良が上疏して弁じたが俸を奪われ、詔して禮部が禮科と会議し、「永明の議が正しい。今より吏部の郎官は旧制を守り、九卿・翰林官が四司に礼をするのは止めるべきである」と奏し、詔して許された。
  • 永明はもとより清廉慎重で、嚴嵩が罷められた後に都察院を掌り、綱紀を整えることを自分の任とした。給事中の魏時亮が永明を弾劾すると強く辞職を求め、詔して駅伝で帰ることを許された。翌年卒し、太子少保を贈られ、諡は莊僖。